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 〇緒続真人様  New!


私が遭遇したハイジャック事件
                                            2018年4月14日 緒続真人
1.はじめに
1988年4月、クウェートでハイジャック事件が起こり、日本人としてただ一人私も巻きこまれました。当時、日本中が大騒ぎになったと聞いて
います。あれからちょうど30年目の節目に、この出来事を振り返る機会を得ました。これは、曖昧な記憶を整理し、自分史のなかに、この出来事
をしっか残す機会でもありました。ここでは、乗っ取り犯の機内蜂起そして解放という最も印象深い出来事、又、その間45時間にわたる機内拘束
中のエピソードを、当時のメモや資料をもとに記憶を蘇らせています。

2.事件との遭遇
当時、クウェートではクウェート政府より受注したアズール発電所(350MW級 X8ユニット)建設工事の最盛期でした。私は、その前年
(1987年)の11月に現地入りし、建設所長補佐として諸業務に携わっておりました。そのとき、就労ビザ取得が未完であった為、翌年の3月中旬
より一時帰国、これを終え、成田を発ったのは事件発生前日(4月4日)の午後です。
成田から日航機でバンコクに飛び、翌4月5日の早朝、クウェート航空機に乗り継いだのでした。私を乗せたクウェート航空KU422便は定刻(バン
コク時03:30)に、タイ国際空港(当時はドンムアン空港)を出発しました。離陸後すぐの機内食(夜食)サービスを受け、まどろんでいました。
つんざくような悲鳴、上階ファーストクラスキャビンの階段から転げ落ちて来た男性乗務員。うつ伏せに倒れ、荒々しい息使いとうめき声、口と鼻
から流れ出て、床に広がる鮮血。ただならぬ様子に目が覚め身構えました。そしてその上階から足早に降りてきた複数の人影。怒号を上げ、拳銃を
両手で構え、乗客の行動を威嚇するのです。一人の男は右手に手榴弾を持ち、肩の上にかざしていました。その時から皆ホールドアップとなり、
私もこれにならいました。息苦しい沈黙が続きました。犯人が構える拳銃の先端もかすかに震えているのが分りました。こういうシーンは何かの
映画でみたことがあり「その中の出来事なのだ」と、いう錯覚にとらわれ、何故か恐怖はありませんでした。むしろ、この経験をしっかり脳裏に
焼き付けておこうとする自分があったように記憶します。こうして始まった「私が遭遇したハイジャック事件」でありました。

3.機内拘束中の出来事
この後、次のようなシーンが、私の意思とは無関係に進んでいきました。
●人質の乗客全員が機体後方部に。そこで、アジア系、欧米系と大まかに分けられ着席。
●アメリカ人乗客を必死に探す犯人そして全員のパスポートチェック、
(アメリカの同盟国の)日本人であることが分ったら、との恐怖、でも逆に日本人に対し、親近感を示される。
●乗っ取り犯全員が覆面を着用し始め、その異様な様相に機内の雰囲気も変わる。
●航空機が下降を開始、そして着陸。いったい、どこに連れて行かれたのかという不安。
●結束バンドにより男性乗客全員の両手首は固縛され、人質になってしまった、との無念がこみ上げる。
●サンドイッチ、水の配給、そこにIran Airのロゴを見つけ、着陸した空港はイラン国内であることを知り落胆。
●食事のとき、手枷のない女性乗客が、かいがいしく男性の世話・・・女性の優しさに触れる。
●女性だけの解放が告げられる、カップルにとっては、これが永久の別れとなるかもしれないのだ、
交わす言葉、軽い抱擁と口づけ、切ないシーンに、これもまた映画の世界。
●女性が去った後の、殺伐とした機内の空気そして憂鬱。
(そして何も起こらないまま翌日を迎えました)
●滑走路を幾度となく移動する機体、頻発する機内停電、火災警報、気が滅入り苛立つ。
●強行突破脱出作戦がありうるかもしれない、その時のシミュレーション(伏せる場所、非常扉開放要領の反芻)
●「いざ、離陸か」と思わせるような機体の動き、でも結局は離陸せず。何も起こらないことへの焦燥
●乗客の筆記作業禁止のなか、その目を盗んで(備え付けの絵葉書に)書いた家族への遺書
●見回りの犯人(青年)と交わした短い会話(「目的は?」、「仲間の解放のため・・・」)
(この日も夜がきて更に日を跨ぎ4月7日となりました)
4.解放のとき
”You are leaving now(今から解放する)“ この言葉が寝ていた耳元にささやかれたのです。
手荷物をまとめた乗客は、機体前方キャビンに集められました。リーダーとおぼしき人間が、コックピット室をバックにして、分りやすい英語で
話を始めました。“We are deeply sorry(皆さんには非常に申し訳なかった)・・・・。” 「今から解放されるのだ」という高ぶった気分の
なか、謝罪の言葉から始まるこの演説に、皆、聞き入りました。演説は続き、仲間の解放のため、今回の行動に出たこと。そのために、関係のない
乗客を巻こんでしまったこと。さらに、預けた荷物のことにまで言及し、「必ず当機の最終到着空港より、皆さんの自宅に届けるようにする」と
まで話があったのです。そして、最後にまた、”We are sorry・・・・”で、話を締めました。この時、期せずして乗客から拍手が沸き起こり、
その中から “Thank You・・・”との言葉まで発せられたのでした。最初は人質と乗っ取り犯という関係であり、彼らも人質となった我々の存在を
恐れていました。しかし、人質の中に、彼らにとっての危険分子がいないことが分ってくると、手枷(てかせ)も、やがては解かれました。この
閉鎖された空間を丸2日間共有し、言葉は交わさないまでも、ある種の連帯感にも似た空気が醸成されていたことは、間違いありません。この
感情をいわゆる「ストックホルム症候群」と称するものようです。こうして、乗客一人一人がタラップを降り、機外の人となりました。外気は
冷たいものの新鮮でした。はるか向こうには、軍隊と思われる車列とヘッドライト、赤色灯が回る救急車。
ひたすら歩き、振り返ると、夜空に凍りついたように鈍く光るジャンボジェットの巨体。空を見上げれば、満天の星。「これで自由になれた、
もう死ぬことはない」言葉では言い表せない安堵感、脱力するような快感。一生忘れられない夜となりました。

5.本ハイジャック事件について
私がバンコクで搭乗したクウェート航空機422便には乗客・乗員あわせ112人が搭乗
していました。そして、バンコクを離陸3時間後、オマーン上空で8人のイスラム過激
派により乗っ取られたのです。この乗っ取りは、乗客の中にクウェート王族3人が
含まれる予定であることを事前に察知し、これをターゲットに入念に企てられたもの
でした。目的はクウェート政府に対し、クウェート国内に拘束中の仲間の釈放、
すなわち、その5年前の1983年、クウェート国内で米・仏大使館に対し爆弾テロを実行
した17人の同胞奪還でした。
乗っ取られたジャンボ機が緊急着陸したのはイランのマシャド空港でした。ここで、
まずは女性の乗客・乗員が解放され、続いて、私を含む非クウェート人乗客全員が
解放されました。そして、解放された乗客全員共に、クウェート政府が用意した特別機
で当初の目的地クウェートに向いました。ここで私はクウェートアズール建設現地に
移動し、職務に復帰しました。しかし、この事件はこれで終わってはいなかったの
です。クウェート王族を含むクウェート人乗客を人質にとったままのクウェート航空機
は、イラン・マシャド空港を離陸しキプロスへ。そして更にアルジェリアにまで飛び、
ここでPLOの仲介による政治的決着で幕を引きます。
特記すべきは、キプロスの空港で、要求を飲まないクウェート政府への見せしめの
ため、2人のクウェート人乗客を次々と殺害し、遺体を機外へ放り投げるという非道な
行為にも及んでいることです。

6.結び
この事件の最中、職場の仲間、友人をはじめ多くの人々が、わが身のように案じて
くれていたことはよく承知しています。その祈りの中に無事生還できたことを決して
忘れてはいけないと、肝に銘じています。その中で妻や子供たちの心配は如何ばかりで
あったか、と察します。この事件の後、同じクウェートへの出張に何事もなかった
ように送り出す妻の胸中は察するに余りあり、今でも思いだし感謝しています。
尚、この事件を機に、たくさんの人が私のことを知ってくれるようになりました。
また、この経験を自ら切り出し話せば、初対面の人でも心を開いてくれ、これで多くの
友を得、知り合いを作ることができました。この時代、生命の危機に瀕するような
経験は誰もが出来るものではありません。これを引き当てたのは、私のもった運で
あったと思います
以上