皆様からのお便り(2.A) 伊藤 一郎

コロンビアでの経験と戦友たち (その1)   伊藤一郎


1.コロンビア国向けプロジェクトを担当した経緯

 長船がコロンビア国に石炭焚き火力発電所を建設したことは御存じない或いは御記憶から無くなった方も大勢おられると思います。三菱重工の原動機輸出が増えてきた1972年から1982年に立て続けに5プロジェクトを受注してその建設と納入には語り尽くせない苦労のストリーがありました。どのプラントも予定通りに進まず、皆さんからは「ネ(寝)コロンビア」と冷やかされましたがやっていた担当達は厳しい環境で必死に業務に励んでました。(コロンビアプロジェクトは下記のとおりです)


 その中で1983年に長船原動機輸出一課(当時内田捷治課長)に配属された私はそのコロンビア案件を担当することになりました。
当時コロンビアは麻薬カルテルと左翼ゲリラ(FARCとかM-19)が政府と同じ位の軍事力と資金を有して、誘拐や殺人が横行する世界で一番危険な国でした。1994年に大ヒットしたハリソン・フォード主演の映画「今そこにある危機」(Clear and Present Danger)そのものの危険な国でした。

しかも受注した案件で北部グアヒラ州の2プロジェクト(セレホンCerrejon 1号とグアヒラGuajira2号と区分けして呼んでいました)は建設サイトが麻薬の栽培と売買取引を行っていた陸の孤島で現地調査に行った土建関係者(当時の福井嘉之課長と成枝吉夫担当)は麻薬取引現場に遭遇して危うく射殺される危険に遭った事は有名で、今回の「よもやま話」にも記事になっておりますが麻薬取引現場に遭遇した成枝吉夫様から当時の事件現場の写真を頂きました。こんな場所だったのは筆者も初めて知りました。また貴重な現地調査の写真も頂きましたので添付いたしました。ありがとうございました。(長機会メンバー関係者の若き時代の雄姿も写っております)

1985年秋そのセレホンサイトにグアヒラ2号のアドミとして派遣されることが決まり両親に報告したら、両親からは「何でそんな危険な処に行かされるのか?違う仕事見つけたらどうか?」とか大学の友人からは「コロンビアレコードに転職か?」とか散々言われました。当時結婚して間もない時期でもあり、又数年間建設がストップしていて何時建設が終わり帰れるか分からないプロジェクトで、女房には大変な心配と不安を与えました。出発前に故郷神戸に女房と帰省した際、京都鴨川の川床で両親が「今生の別れ」みたいな夕食に招待してくれ夕食終わった頃にテレビで大騒ぎになっていました。それはあの「日航ジャンボ機墜落事故」が発生して日本中がこの悲惨な事故がどうなるのかを固唾飲んでTVにくぎ付けになっていた時で、その混乱は今でも鮮明に覚えております。1985年8月12日でした。母親は「縁起悪いわ。」と帰国まで随分心配しておりました。両親と女房には「修行して一人前になって帰ってくるから心配しないで待っていて」と言って出発しました。

2.コロンビア・グアヒラサイトに建設アドミとして赴任

そんな中1985年10月にサイトに赴任しました。当時聞いていた以上に左翼ゲリラ活動は活発化し内戦化しておりました。世界中で実況中継されていたそうですが、赴任直後の1985年11月6日左翼ゲリラが首都ボゴタの最高裁判所を占拠して立て籠り、翌日軍隊と戦車が裁判所に突入してゲリラと裁判官が100名以上殺害され、裁判書類も放火され、とても民主国家と言えない事件が起こりました。
 正しく私は当日裁判所から数百メータの距離にある定宿のBACATA HOTEL(バカタホテル)に宿泊しており、実弾の音がTV中継とほぼ同時に聞こえるという映画そのものの状況でした。これはメデジン市を拠点とする麻薬カルテルと左翼ゲリラM-19が組んで起こした事件と言われています。現在は政府がゲリラ組織を排斥して非常に安全な国になっており、日本からも観光ツアーがでております。
 取り分け反米運動が盛んな南米諸国にあってコロンビア共和国は親米で米軍基地には数千人の米軍が配置されており、太平洋と大西洋の両方接する地政学上の重要な拠点でパナマの隣国でもあり、石炭などの鉱物資源も多く非常に発展が期待されております。


 発電所の現場が元々麻薬栽培と取引場であったのでコロンビア軍に守られながら日本人は全員サイト内にある宿舎に住んで建設工事は行われました。テレビも娯楽もなく日本から送られるビデオカセットと2週間に一度土日に交代で2時間かけていくサンタマルタ・ロダデロという一番近い海岸リゾートに一泊二日で出るのが最大の楽しみでした。その道路も海岸の断崖に作られた道路で雨で崖崩れが発生したりゲリラが襲撃したり危険が伴うので昼間だけの移動で運転手2名が大型バンで往復するのが唯一の交通手段でした。また電話も今のメールもなく、アルファベットで打たれたテレグラム(カタカナ読みでフリガナふって読みます)と日本から2週間掛けて配達される郵便物だけが日本との交信手段でした。また三菱商事ボゴタ事務所がある首都ボコタとは聞き取りにくい無線がありそれが一番早く連絡取れる道具でした。無線なので時々麻薬取引の音声が入ってきたりしました。今でも三菱商事ボコタ事務所から「こちらボコタ、ボコタ、セレホンどうぞ。オーバー」という商事担当者の声が耳に残っています。
 三菱商事も当時CPJ(Columbia Project Office)をボコタに置いて多い時には邦人営業2名、経理1名に現地スタッフ5-6名くらい抱えて絶大な支援をしてくれていました。当時としてはかなりのサービスでしたが今でもそのメンバーとは集まって「コロンビア会」を毎年開催して懇親続けております。長船建設部や営業からは定期的に日本食の差し入れがあり、隣のミンゲオという結構危ない村には密輸と思われるロイヤルサルートやメキシカンビールなど酒類が豊富で超安価に手に入りましたので、キャンプ内にあった娯楽室(畳部屋)で夜皆集まって懇親会が出来ました。チームとして纏まりは良く所謂「ONE TEAM」で幾つかあった大きな難関も乗り越えられました。
(その2で幾つかご紹介します)
又サイトには何度か日本から激励の幹部訪問があり、それを目標に成果を上げるのも大きな励ましとなりました。

一番嬉しかったのは長船原動機輸出一課担当者だった関加津子さんから毎週届く「Zukko News」でサイトの日本人にとって本当に
「癒し」でした。続く