皆様からのお便り 「喜多所長と表札」 松永 巌様
喜多所長と表札 松永巌
昭和38、39年頃、私は三菱重工長崎造船所の原動機管理課長の職にあった。私の配下の管理係は、製造物の生産工程を所掌
して居り、船舶に搭載するタービン、ボイラー等の主機や補機の工程を把握し、船の工程を管理する造船管理課と連繋して調整
して居た。
或る時ギリシャ船籍のニアルコスと言う納期が極端に短く、価格の厳しい3隻の商談があった。商談中であったが、工程の
長い高圧タービン・ケーシングの鋳物を先行して着工した。所が受注に失敗し、ケーシングが不要となった。将来の受注を考え
倉庫に保管する事にして、その費用180万円を所長伺いとして提出した。その時の所長は喜多所長。
喜多所長は旧制大阪高校から昭和4年東大の造船を出た仁で、短駆にして髪はロマンスグレー、大阪弁丸出しで、厳しく物を
見、大声で叱責されて、皆戦々恐々として居た。
伺いを提出した翌々日、所長から呼び出しがあり、重い足取りで、恐る恐る所長室へ伺った。予想に反し所長は割と柔らかい
表情で「納期が間に合わぬと言って、君達が勝手に作ったものに金は出せない。お前が現場に行って収納場所を探せ、若し見付
けてきたら1%やる!」と笑い乍ら書類を突っ返された。
余り怒られずに早く済んだので、大急ぎで工場に行き、工場長と一緒に方々探し、何とか収納出来る場所を見付けた。
早速所長室に行って報告したら「ほら見ろ!」と言われたが1%の話は黙殺された。
昭和39年6月、所長は常務取締役船舶事業本部長として本社に転勤されることになった。転勤される数日前、秘書を通して
所長室へ呼ばれた。何事かと大急ぎで所長室に入って不動の姿勢で御指示を待った。所長は座ったまま回転椅子を私の方へ
向けいきなり「今夜俺の家に来い!ロータリークラブの会合があって帰宅は8時頃になるが良いか?」と仰しゃった。所長宅
へのお招きをお断りする理由は無かった。
その頃私は玄関を改造し、門被りの松などを植えて模様変えをして居た。そして所長に表札を書いて頂こうと檜材の表札を
買い求め機会を待って居る所であった。
その日帰宅して夕食を済ませ、浦上天主堂近くの自宅を出て「おくんち」で有名な、街の中央にある諏訪神社の隣にある
所長宅を訪ねた。所長は未だ御帰宅ではなく、奥様がお出になり「どうぞ、どうぞ!」とお茶の間に通された。奥様とお話を
して居たら、お酒も入って居たらしく、玄関から大きな声で「よく来た!よく来た!」と自分の席にお着きになった。お酒は
出ずに、真剣な面持ちで、「長崎を離れるに当たり、お前に話して置きたい事がある。」とのお言葉。37歳の若僧の私に
どんな話をなされるのかと耳を澄まして居た。
「俺は造船の事は全く心配していないが、機械の事が心配だ」と本当に色々な事をお話しされた。「お前は課長だが全体を
見る立場に居るのだから、広く物を見る様に心掛けて頑張れ!」との激励のお言葉と受け止めた。
話が一段落した時に「所長に一つお願いがあるのですが」と切り出した。「何や?」とお尋ねになったので「玄関の改装
しましたので、新しい表札を書いて頂きたいのですが」と言ったら、奥様が「松永さんのお名前は難しい字で、転勤前の忙しい
時に大丈夫ですか?」と仰ったが、所長は「ま、置いて行け!」と受け取って下さった。少し我儘を言い過ぎたかなと思ったが絶好の機会とも思った。
翌々日、秘書から表札が出来て居るから取りに来るようにと電話があった。喜んで所長室に行くと所長自ら表札をお出しになり「これを書くのに練習も入れて30分掛かった。所長の時給は3万6千円だから1万8千円を支払へ!」と仰しゃるから、私は
「タービン・ケーシングの倉庫代の1%(1万8千円)を未だ頂いてないので、それでー」と言ったら「お前と言う奴はーー」
とお笑いになった。
この表札は私が本社へ転勤することになったので、大切に包装し、家宝として今でも大切に保管して居る。
喜多所長は本社への転勤後間もなく喉頭癌を発症され、辣腕を充分に発揮される事無く、昭和43年8月他界された。
享年64歳の若さであった。(2020年12月5日著)