皆様からのお便り  「大江戸の中の長崎散策」 伊藤一郎

    「大江戸の中の長崎散策」伊藤一郎

 東京に転勤時(2011年)は単身赴任でもあり、久しぶりの「東京」を”お上りさん的”に散策することを毎週楽しみに
していました。
 最初「東京散歩」と言う本を買ってそこにある55コースを完歩するべく始めました。その後、古地図に興味があり
「大江戸今昔マップ」と言う本の江戸の古地図と現在の地図を見ながら江戸時代からの史跡の痕跡とその歴史を辿る事が
とても面白くなりました。その後、江戸文化に詳しい専門ガイド(U氏)の主催する「大江戸歴史散策会」に入り、
そのグループで月に一度位ですが、大江戸の史跡散策が今も趣味として続いております。

 その中で「大江戸の中の長崎」の痕跡を発見して、東京に残る長崎の歴史的史跡を見付けては長崎の特異な歴史を勉強
しました。今回その中からいくつか書いてみました。

1. 長崎屋跡(地下鉄新日本橋駅出口)

 「長崎屋」は長崎出身の江原源右衛門が始めた幕府御用達の薬種問屋でしたが17世紀前半からはオランダ商館長の江戸での定宿となり、毎年行われた
オランダ商館長グループの江戸参府時には多くのオランダ人が出入りする江戸では珍しい名所でした。所謂「江戸の出島」と呼ばれ、当時最先端の医学、技術の集積地でした。

 それを目当てに多くの文人、医者が訪れました。あのケンペルやシーボルト
も長崎から江戸に来たときはここに宿泊し、青木昆陽や杉田玄白も訪れ教えを
請うたとのこと。

 江戸での貴重な外国情報の基地になっていたこの場所も今は地下鉄新日本橋駅
出口にある中央区教育委員会の立て看板があるだけです。葛飾北斎の有名な浮世
絵が残っています。(因みにデパートの長崎屋とは全く別です)

 

2. 梅屋庄吉氏と松本楼

 梅屋庄吉氏(1869年-1934年)は長崎生まれの実業家で土佐商会の家主である精米商梅屋商会に養子に入り14歳で上海に
渡り写真館を経営し、香港で貿易商として活躍していた時に後の中国の革命家孫文に出会い、生涯通じて多額の資金援助をして
辛亥革命を成就させた事で有名です。

 長崎という歴史的に中国と結びつきが強い場所で国際感覚を養っていた梅屋庄吉は、孫文が革命にかける情熱に感銘を受け、
「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援する」と盟約を結んで、生涯その誓いを貫き通きました。

 実娘千世子の娘主和子(すわこ)氏が日比谷松本楼創業者・小坂梅吉の孫に嫁して曾孫の小坂文乃さんが現在松本楼代表取締役
で、この歴史的な日比谷本店には貴重な展示物があり長崎から出た梅屋庄吉と孫文の歴史を知る事ができます。

 また孫文夫人の宋慶鈴さんが使ったピアノも展示されています。今中国との関係がギクシャクしている中、長崎出身の偉人の
志が新しい時代の日中関係見直しになれば良いと思います。
 平成20年(2008年)福田康夫総理(当時)主催の「胡錦濤国家主席訪日歓迎夕食会」が当松本楼で行われました。 

 令和4年度の長機会総会をこの松本楼で計画しているが、コロナ禍で実施できるか微妙な状況です。もし実施できなくても
是非一度訪問して長崎の偉人・梅田庄吉氏と孫文の歴史を振り返りながら食事されたらどうかと思います。

        日比谷松本楼 玄関にある梅田庄吉と孫文の展示物。右は宋慶鈴夫人愛用ピアノ)

              孫文と梅屋庄吉・トク夫妻三人像(長崎市、松が枝国際観光ふ頭緑地)
     2011年10月辛亥革命100周年を記念して、中国政府から長崎県へ日中友好のシンボルとして寄贈された。

3. 江戸の「西坂」(キリシタン殉教の地)

 長崎の西坂公園には豊臣秀吉時代の二十六聖人の殉教の地として、1981年2月には聖ヨハネ・パウロ2世、2019年11月には
現教皇フランシスコが訪れ、この殉教の地でイエズス会の26聖人に祈りを捧げておられますが、江戸では第三代将軍徳川家光
の代に一度にそれ以上の50名の殉教者が出ています。

 現在港区「札ノ辻」交差点近くで元都ホテル跡地を再開発して現在住友不動産三田ツインビル西館(ラ・トゥール三田)が
建てられている地において、第三代将軍家光の命で1623(元和9)年12月4日、長崎から来たイエズス会のデ・アンジェリス
神父、フランシスコ会のガルベス神父、ジョアン原主水をはじめとする当時最大の50人が火刑によって殉教したという
「江戸で最大の殉教の地」です。
 当時、「札の辻」は東海道から江戸への正面出入り口で、高札場であったため、多くの人が江戸に出入りするために通過
したので、小高い丘となっていたこの地で処刑されたのは、見せしめだと言われています。小伝馬町の牢獄から引き回され
火あぶりの刑に処され、刑執行後は不浄の地として空き地なったが、150年後に一空上人が霊を弔うため「智福寺」を創建し
1966年(昭和41年)に練馬区に移転するまで、智福寺の境内だったとの説明板があります。

 殉教の地としては長崎の西坂二十六聖人碑の様な目立った碑もない所ですが正しく元和キリシタン殉教の地です。
 江戸でもかなりの隠れキリシタンが居て、多くのキリスト教徒が処刑されています。刑場があった高輪大木戸の石垣の
一部が残され、「都旧跡 元和キリシタン遺跡」の石碑が設置されています。

 承応三(1654)年鈴ヶ森に移転するまでこの札ノ辻が刑場でしたが、鈴ヶ森は明治4(1871)年まで刑場として使用され
江戸時代通じて二十万人あまりが処刑されたと言われています。一番重い刑が火あぶりの刑でした。

     (ゴルゴダの丘を思わせる札の辻の処刑場;ここで日本歴史上最大級の元和キリシタン処刑が行われた)

4. 長崎から来た像の飼育跡(浜離宮恩賜公園と中野

 1728年(享保13年)6月に第八代将軍徳川吉宗の要望でオス・メス2頭の像が広南(ベトナム)から長崎出島に到着して、
メス像は3か月後に長崎で亡くなりますが、オス像は翌1929年3月16日長崎を出発して、陸路歩いて移動し、大変苦労して
4月26日には京都で中御門天皇に謁見して、富士川や多摩川(六郷川)では船を並べて艀にして渡り、箱根の急な上り下り坂
も乗り越え、5月25日には江戸の将軍家別邸だった浜離宮に到着し、3日後の5月28日には念願の吉宗公に江戸城で上覧
叶いました。
 道中はベトナム人の像使い2名と長崎華僑の通訳2名が随行しました。この旅程は1300kmを江戸まで1日3~5里(12~20
キロ)歩いたようですが、この2か月間日本中は「像様大フィーバー」で、京都では天皇謁見の為、十万石の譜代大名に
相当する「従四位広南白像」の官位まで与えられて、正しく「像様がお通りになる」国賓扱いの旅だったようです。

 江戸では浜離宮に大きな宿舎(像舎)が作られ、今は跡地の表札だけが残っています。
 その後13年間江戸幕府で養育されましたが餌代が年間200両(約1千万円)もかかり、また世話人も必要になり、
最後は民間に売られ、中野で見世物にされた後、1749年に寂しく亡くなったと言われています。

 死体は解体され像皮とか牙とか骨とかは売却されたり寺に置かれたりしたとの事。時は享保の改革で人民は極度の倹約を
強いられていたので大食いの像の生活は不公平に見えたようです。 
  今も浜離宮と中野朝日が丘公園には像が住んでいた跡と言う立札が残されています。

      (長崎から1300km歩いて江戸に来た像の絵)  (浜離宮公園にある像の飼育舎跡)

                   (中野朝日が丘公園にある像小屋跡)