皆様からのお便り 「坂本龍馬の妻だった“おりょう”」 牧浦秀治様

           

 

   三浦半島に延びる京急線は歴史探訪の道である。
   鎌倉幕府の図書機能を担った金沢文庫、徳川家康の
  外交顧問・英国人ウィリアム・アダムスこと三浦按針が
  祭られている安針塚、宋との貿易港・六浦、ペリーが日本
  に初めて上陸した久里浜。
   京急大津駅に行ってきた。大津行政センターの屋上から
  “坂本龍馬の妻 おりょうさんの眠る街 大津”が掲げられ矢印
  に従っていくと信楽寺(しんぎょうじ)はすぐ着いた。
  寺の階段を上り切った山門から、左手山際に高く大きな墓標
  が見えた。

    龍馬と死別したあと明治 8 年(1875)、数え 35歳で
  横須賀の西村松兵衛と再婚し西村ツルと改名している。
  松兵衛は、おりょうのお母さんや妹の子を引き取って世話
  をしている。

 

 

  「もと大家にて、花生け、香を開き、茶の湯などは致し候へども、
   一向かしぎ奉公(家事)などすることはできず」と、龍馬が
   四国の乙女(とめ)姉に書いているように再婚しても酒浸りの
   生活で、場末の長屋を生活の場にする市井の人となっても、
   深酒しては「私は坂本龍馬の女房だった」と路上で喚いていた
   らしい。   
   松兵衛との生活も、龍馬との数年間の思い出を忘れさせること
   はできなかったようだ。
   父は名を楢崎将作といい、京都の医師で勤皇派だった。
   安政の大獄で捕えられて文久 2 年(1862)に獄死した。
   おりょうは長女で妹二人と弟が二人いる。彼女が 22 歳のとき
   だ。
   家族を養うために伏見寺田屋に身を寄せていた。
   慶応 2 年(1866)1 月 21 日、薩長同盟が成立した。
   23 日、伏見の寺田屋に龍馬は戻った。その日は、
   長府藩(長州藩の支藩)の三吉慎蔵と泊まっていた。夜更けに
   奉行所の捕吏方に包囲される。その時、おりょうは風呂に入って
   いた。濡れ肌に袷一枚ひっかけて帯をする間もなく裸足で駆け
   出して二階にいる龍馬たちに伝えた。

 

 「おりょうがおればこそ、龍馬の命はたすかりたり」と土佐の乙女姉に書いている。寺田屋で傷を負い、治療ために
 その年の 2 月に霧島山に二人でした旅行が、我が国で初めての新婚旅行だ。
  その翌年、京都の近江屋で龍馬は殺される。新婚旅行から 1 年 9 か月後、27歳で未亡人になった。
 


 明治 39 年(1906)1 月 15 日、横須賀の地で西村ツルとして
 亡くなった。葬儀は近所の仲間の手でささやかに行われた。
 信楽寺までの路傍で海軍横須賀海軍鎮守府の士官たちも見送って
 いたという。
  日露戦争(1904~1905 年)の最中、“坂本龍馬”の名前が
 新聞紙上を賑わした。戦争の行方を心配されていた明治天皇の
 御妃・昭憲皇太后、その夢の中に白装束の武士が現れ
  「ご心配されることはありません」と告げたという。
 
 そのことを宮内大臣の田中光顕に伝えたところ、土佐出身の彼は
  「それは坂本龍馬である」と断言した。
 
 田中光顕は坂本龍馬と勤王の同志であった。
 墓石はひときわ大きく周りを見おろすように建っている。
      「贈4位阪本龍馬之妻龍子之墓」

  坂本龍馬の妻であったのは 2 年弱、西村松兵衛とのそれは 31 年だが、“阪本龍馬の妻龍子の墓とある。
 (墓石の文字は“坂本”ではなく“阪本”) 裏には下記の文字があった。

  「永代寄附明治丗九年十一月十五日 没 享年六十有六諡 昭龍院月珠光大姉

  諡(戒名)は「龍馬を照らす静かな月の光」という意味だそうだ。墓石には建立者の名前もあった。
  
    「大正三年八月十五日 實妹 中澤光江建立」。光江とはおりょうのすぐ下の妹で海軍の中澤某に嫁いだ。

  この墓石は海軍の有志が出し合っておりょうの死 8 年後の建立されたものだった。大日本帝国海軍にとって
  “西村ツル”ではなく海援隊の創始者“坂本龍馬の妻”でなければならなかったのだろう。

  再婚相手の西村松兵衛も同じお寺に葬られているという。どのお墓か分からなかった。
  亡くなった直ぐのおりょうさんの墓標にはなんと書かれていたか、気になった。

       参考:一坂太郎『わが夫 坂本龍馬(おりょう聞書き)』(朝日新書、2009 年)