皆様からのお便り  「高橋伯さんを偲ぶ」   牧浦秀治様

  牧浦さんには昨年亡くなられた職場の先輩高橋様の思い出話をお願いしました。今後皆様からも長機会で亡く
 なられた方への追悼の意を込めて思い出話を寄稿頂ければ幸いです。(伊藤)

  「高橋伯さんを偲ぶ」   牧浦秀治

 “伯”と書いて“つかさ”と読む。でも誰も“つかさ”とは呼ばない。“ぱく”さんという。
 今年の正月は、いつもの元旦と同じように近くの神社にお参りする人たちの明るい声で目覚めた。遅い朝食をとり、年賀を
取りにいく。太い字で「元気でご活躍の様子に嬉しく思っています」、そんな高橋さんからの年賀は来なかった。

 昭和55年に入社、その年の7月1日に建設課に配属された。その日、高橋さんはツーラ、リオブラボへの出張準備で書類を
段ボール箱に詰めていた。「君が新入社員か、建設は面白いぞ。世界の電気の無い所に行って電気を作るのだから」と声をかけ
られた。
 建設課は同期の間では一番人気のない部署、「あの課に入ったら、一年に一回しか長崎に戻って来られない。結婚も難しい」
と言われていた。気が沈んでいる私に「世界を幸せにできる課だぞ」との言葉が、やってみるかと自分を励ましてくれていた。

 

 入社して4年目の秋、メキシコ出張になった。行った先はカリフォルニア湾の奥にあるプエルト・リベルタードという漁村だ。
首都メキシコシティから州都エルモシージョまで飛行機、州都からは車に乗り換える。土漠の中に赤茶けた岩山が点在し、
この風景を遮るのは背丈以上の高さのサボテンのみ。西部劇を見ているような風景を眺めながら、車は米国国境に向けて
平均時速100km/hで3時間走った。

 

 1000名近くの作業員に日本人は私一人。キャンプの部屋の窓からはカリフォルニア湾が見え、もう一方の窓からは青空を
切り取る赤茶けた岩山が見える。
 朝は砂浜に打ち寄せる波の音で起き、夜はアメリカオオカミ・コヨーテの叫びを聞きながら床に就く。
 初めて現地は一人。入社4年目の「俺はやれる」という自信はどんどん薄れてきた。誰にも相談できない、日本との電話も
つながらない。ひとりで決断しなければならないプレッシャで押しつぶされそうになってきた。

 時差14時間、日本が朝の時、自分は夜の闇の世界に居る。1万キロメートル離れていても時刻は共有できる。しかし同じ環境
を共にする事は出来ない。孤独と不安と責任感で私の心はどんどんと平常心を失っていた。
 そんな時、妻から手紙が届いた。出発前に生まれた長女の育児に疲れて入院していると書いてあった。心はますます疲労し
崩壊への道を進んでいた。会社から支給された精神安定剤“トランキライザー”を重宝した。
 
 6ヵ月の出張を終えて、 帰国すると産後鬱だった妻を彼女の両親が面倒みてくれていた。家族も私の仕事も日常になった時、
仲間とメキシコ出張の話になった。
 「君が大変なときに、高橋さんは、奥さんに牧浦の所に行って赤子をあずかって来いといったようだよ」。
 そのとき「高橋さんには全てでついていく」と決心した。

 「情は、お前の管理者としての弱さだ」と言われたことがある。でも、会社生活を離れて振り返るとき、思い出すのは、
辛い時にかけられた情ある言葉や人づてに伝わってくるその人の温かい行為だ。

 仕事に厳しかった高橋さん、心が挫けそうになったとき「そうか、そうか」と聞いてくれた伯さん。
 高橋さんの思い出には遠近がある。思い出が自らの中に入り込み伯さんから語り掛けられたとき、恩を返しきれなかった
 うしろめたい気持ちを拭えずにいる。

 「牧浦の家に行って・・」の話はこれまで何度も仲間や後輩に話した。高橋伯さんは、先輩と仲間と後輩との話の中で
今後も現れてくる。私の中でこの想い出とともに生き続けていくだろう。以上

 故黒﨑孝明邸で伯さんと一緒に撮った貴重な写真です。伯さん、黒崎さん、山崎さん、牧浦の4家族が黒﨑邸に
集まって写したものです。山崎さんは中国での不慮の事故で既に他界されていました。撮影は1998年11月14日。