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〇相川 賢太郎 様 New!
篆刻事始め;『埋もれた金印』 2017・2・18 相川賢太郎
上:志賀島で発掘された金印 下:画像処理により倭奴の名前「常根津日子命」が現れた。奴国王の名前に注意 |
昭和31年、『埋もれた金印』という岩波新書が発刊されました。(初版:昭和25年) それによると、天明4年
(1784年)の大飢饉の時、福岡県志賀島の百姓・甚兵衛さんは飢饉対策として畑を掘り広げたところ、畑の一隅
より『金印』を掘り当てました。 福岡藩主・黒田公に届け出たところ、甚兵衛さんには若干の米が与えられ、金印
は黒田公に取り上げられ、その家宝とされました。調査の結果,金印面には「漢委奴国王(かんのやまとなのこく
おう)」と彫ってあり、これは『西暦57年、朝貢した日本の「倭奴国王」の使者に、後漢の光武帝が「印綬」を与え
た』と魏志倭人伝に記録された、その時の『金印』であろうということになったのです。「奴国」とは福岡県那珂
郡春日市地区の古名です。
私は早速、家内と息子2人を連れて、長崎から遥々、志賀島の発掘現場・叫崎を訪ねましたが、そこには『金印発光
の地』と言う立札が立っているだけでした。
村役場を訪ね役場の人に「金印発掘」の事を尋ねますと、「あなたは何者か?」と疑わしげに聞かれたので、
「長崎造船所の技師で怪しい者では無い」などと、「岩波新書・埋もれた金印」を出して敬意を示したところ、
「しばらく待て」と言って引き込まれました。
間もなく村長さんが紫の袱紗に包んだ『金印』を恭々しく捧げ持ってきて、「よく来てくれた」と喜ばれました。 2重の桐箱を開いて、『手に取って見て下さい』と言われたので、私共一同は金色燦然と輝く「金印」を手に取って
感動しました。
我々の感動ぶりを見た村長さんはちょっとあわて気味で、「実はこれは複製品で、本物は上野国立博物館にあり
ます。しかしこの「贋作・金印」も純金製なのです。」といかにも気の毒そうに言われましたが、眩しいばかりの
『金印』に、我々の感動はゆるぎませんでした。
金印は「蛇鈕(だちゅう)」で、印面23mm角・8mm厚・重量108.7g・金95%の22Kですから、今の金地金価格
では約45万円です。印面23mmと言うのは、後漢尺1寸だそうです。
その後、昭和54年、福岡市立博物館が新設されて、『埋もれた金印・漢委奴国王』の本物が、上野国立博物館
より福岡に移動展示されたというニュースがありましたので、早速それを見に福岡に参りました所、そこには本物の『金印』が展示してありました。 そしてそのすぐそばに、そっくりの『国宝・写・金印』が売ってあり、大喜びでこれを入手しました。これは「銀製・金メッキ」ですが本物と見ま
がうばかりです。
それから数年後、北京に行く機会があり、「文房四宝(ふですみすずりかみ)」専門店街・瑠璃庁(るりちやん)を訪ねたところ、美しい石印材がウインドウに並び、篆刻師が石印を彫っている所を見る事が出来ました。 暫く見ている内に志賀島の『埋もれた金印』を思い出し、これなら自分も出来るかもしれないと、『金印』と類似の自己印を石印材に彫って見ようと思いつきました。 北京の印材は大変美しいのに、値段が非常に安かったので、氏名印・住所印・封印用等の、大小沢山の印材と篆刻刀を買いこんで帰り、手引書を読みながら篆刻を始めました。 篆刻事始めです。
先ずは発掘された『漢委奴国王』の字体に似せた字の『相川賢』の石印を彫り、自製可能であることを確認しました。 其の後、色々な陰・陽の氏名印や住所印等の篆刻印を作り、「漢委奴国王」の気分で愛用してきました。 住所が変わる度に彫り変えることも楽しみのうちでした。(添付・自製篆刻の印影写真参照)
その後、富永直樹先生(人間国宝彫刻家・長崎中学の先輩)が手紙に捺印した私の篆刻を自製とは知らず、『もう少し良いものを差し上げよう』と、彼の友人にわざわざ私の名前・号の篆刻2本を彫らせて進呈して下さいました。 これがなんと人間国宝の篆刻家・小林斗盦(こばやしとあん)先生の作品でした。 国立博物館には先生の作品室があります。
小林斗盦先生の名前は日本のみならず、中国杭州市西湖畔の西冷印社篆刻博物館にも、名篆刻家として紹介してありました。 私の『埋もれた金印』模造の篆刻印のおかげ
で、私は思いがけなく人間国宝の篆刻家・小林斗盦先生の私印を手にする事が出来ました。 『埋もれた金印』フアンの余徳です。
これは余談ですが、2013年『古墳墓碑:池田仁三・著』と言う本が発行され、画像処理により志賀島から掘り出された金印の側面に、金印受領者と思われる奴国王『常根津日子命(とこねつひこのみこと)』と言う名前が刻まれていることが発見・報告されました。(最初の写真参照) これは、第3代・安寧天皇の第2皇子の名前であり、福岡県堺の佐賀県・一貴山銚子塚古墳がその皇子の墓と言われています。この『常根津日子命(とこねつひこのみこと)』の生存は西暦20~66年となっており、金印が授与された西暦57年と良く符合するという。
尚、この本には、古墳の積み石等の画像処理により、今まで不明とされてきた沢山の古墳被葬者の名前を読み出して報告しています。 古墳に興味のある方はご一覧ください。 然し、『古墳墓碑』が発行されてから3年以上経っているのに、この本はいまだに学会で取り上げられないので、真偽の程、ちょっと不審に思っている所です。
皆さんは、「奈良・箸墓古墳」・「邪馬台国・卑弥呼」をご存知と思います。
前述の「魏志倭人伝」には、「西暦57年に奴国王」に、「西暦240年に卑弥呼」に、それぞれ「印綬」を授けたと書いてあり、又、卑弥呼は「150mの巨大な古墳」に殉死者100余人と共に葬られたとも書いてあります。 となると「奴国王金印」が、あの志賀島などから掘り出される確率より、「卑弥呼金印」が箸墓古墳から掘り出される確率の方が遥かに高いと思はれませんか??? 「邪馬台国・卑弥呼の大和説・九州説」の真否を確かめるためにも、箸墓古墳の発掘調査をして欲しいものと思います。 若し、金印が現れれば、日本の古代史の闇は、俄かに歴然とするのではないでしょうか??
秦の始皇帝の兵馬俑等が見事に発掘されたのを見て、深い感銘を受けたことを思い出します。
茨城県古河市には、日本でも珍しい立派な「篆刻美術館」がありますので、興味のある方はその方面にお出掛の節は御覧ください。
尚,志賀島の『埋もれた金印』の「金印・写」(模造品)は、国立上野博物館のミュージアムショップに販売しています.これは真鍮製・金メッキで3,000円ですが、そっくりです。 印譜や篆刻の指導書なども売っています。
『埋もれた金印』と言う岩波新書は同著者・同名本が2種類出版されていますが、先ず、昭和25年初版(副題:女王卑弥呼と日本の黎明)を先ず読まれるがよいと思います。あとから出された1970年初版(副題:日本国家の成立)は詳説ですから、あとからが判りやすい。 書名が同じなので発注の際ご注意ください。
以上
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