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〇「勝海舟と長崎妻」 牧浦秀治様   New!  


 勝海舟の妻民子は、糟糠の妻だった。だが勝海舟は好き勝手な
ことをやる。その始まりが長崎の地だ。勝が長崎にやってきたの
は1855年(安政2年)、長崎鎔鉄所が起工した二年前のことである。
 宿は日蓮宗の本蓮寺、長崎駅の山手側、西坂の26聖人から降りた
ところに入口がある。当時の寺は原爆で吹き飛ばされて現在のは、
戦後建てられたものだ。

 ここに宿泊していた勝海舟は近くの「梶くま」と恋仲になる。
梶くまの墓が寺の裏山にあるというので探しに行った。今から
10年前の7月のことだ。法名「容誉智顔麗光大姉(ようよ、ちがん
れいこう、だいし)」を当てに週末、朝6時から出かけ、3週続けて
行った。友人の記憶を頼りに探し出したのが、これだ。江戸を戦火
から救い、日本の海軍の基礎を創った勝海舟。愛人だったとは
いえ、勝の栄誉が届かないほど彼女の墓は、藪に覆われていた。
(写真左のお墓)
 墓石に彫られた法名も一致した。約4年間の長崎滞在中、梶くまは海舟の長崎妻だった。

  勝の妻民子は、深川芸者あがりで二人の間には二男二女がいる。1860年(万延元
年)、勝海舟が咸臨丸で太平洋を横断すべく長崎から江戸に戻る。彼は民子に長崎妻の
ことを白状している。「なぜ江戸に呼ばないの?それではあまりに可哀そう。そのうち
わたくしがお呼びしましょう」と民子夫人は答えている。

 二度目に長崎に来たのは4年後の1864年(元治元年)2月23日から4月4日まで41日
間、梶くまと縁りを戻し、このときに男の子を宿している。勝海舟の三男で梶梅太郎
だ。彼女は、梅太郎が3歳の時に25歳で亡くなる。今回、探し出したのはその
「梶くま」の墓だ。

 勝海舟は、名前が分かっているだけで7名の妾がいた。くま、お糸、おかね、およね、おふさ、おなか、とよで最初が長崎妻である梶くまで、最後が62歳のとき、旧幕臣の娘
とよ子だ。海舟の妻民子は三歳上の姉さん女房。海舟は「俺が今日あるのはこの民子の
おかげ」と褒めちぎっていた。
 勝海舟が1899年(明治32年)に亡くなり、6年後に民子夫人も亡くなった。亡くな
る前にこんな言葉を残している。
「間違っても勝のそばに埋めてくださいますな」
 妾の子供も自分が面倒見た。海舟を立てていた。大勢の尊敬をうけながら家事を切り
盛りしていた糟糠の妻の心はこれだった。

  

  民子の長男小鹿は病弱で、勝海舟よりも、7年早く40歳で亡
 なり、勝家の代々の青山霊園に埋葬されている。勝海舟は「富士
 見ながら土に入りたい」と生前洗足池の所にある別邸背後の丘
 に墓所を造り、亡くなった時にそこに入った。
 民子が選んだのは長男小鹿の方だった。遺族が可哀想だと
 昭和28年合祀(ごうし)している。民子さんにしては余計な
 お世話だと思う。

  ところで新田次郎は『孤高の人』、奥様は藤原ていで『流れ
 る星は生きている』の作者。藤原ていは、『わが夫、新田次郎』
(新潮社)に、「自分が死んだら、お父さんの骨の上に自分の骨
 を重ねてほしい」と書いた。
 勝海舟は国家に貢献した。新田次郎は文学で人々を魅惑した。
 新田次郎はさらに子供たちに家族の大切さも教えた。
                          以 上