皆様からのお便り
○ 相川賢太郎様 New!
新聞輪転機にまつわる話 ー神風号と新聞輪転機ー
長崎中学時代の友人・後藤文康君は七高・九大を経て朝日新聞に入社し、平成元年頃は本社で編集委員長をしていました。其の頃、私は長崎造船所
から東京に転勤して、間もなく社長になりましたが、後藤君は『君は田舎から急に出てきて東京には知人も少なく心細いだろう。朝日新聞の中江社長
は自分の同期入社で親しいので、一度一緒に飯でも食おう。異業種の社長同士の話し合いはお互いに役に立つと思う。』といって中江利忠社長を紹介
してくれました。話が大変はずんで何度も3人で食事をしました。
そのうちに朝日新聞社から新設の堺新聞印刷工場向けの新聞輪転機が4台、三菱重工に発注されました。朝日新聞社は、創業以来、東京機械社の新聞
輪転機を使っておりましたので、当社の営業も売り込みを遠慮しておりましたし、私も中江社長の席で、新聞輪転機の話をしたことはありませんでし
た。しかしこれは明らかに中江社長のご配盧であるに違いありませんので、私は丁重にお礼を申し上げましたが、さりげなく『それは良かったです
ね』とひとことのみ、多くを語られませんでした。これが中江流武士の情けかと心に沁み通りました。後藤君に話しましたら、『中江君はそんな男
なんだよ』と自慢しました。
平成2年3月、新聞輪転機を納入して、堺新聞印刷工場の竣工式となり中江社長が出席される由、私にも招待状が来ました。川田常務と共に伊丹
空港に着くと当社の大阪支社・若杉次長が出迎えており、竣工式では中江社長のあと私に挨拶を述べて欲しいと朝日新聞より申し入れありとのこと。
幸い堺工場まで1時間かかりますので、車中から名古屋航空機の史料館に電話をして、朝日新聞の「神風号」が三菱重工製である事、納入が昭和12年で
ある事を確認して、祝辞を考えました。
竣工式には50~60人の参列者があり三菱重工からは、朝日新聞への新聞輪転機第1号と言うので、本社から私をはじめ、川田常務・平岡部長・三原
工場から渡辺所長・宮路部長・大阪支社から松原支社長・杉田部長・若杉次長・新谷課長・吉田主任等々、フルメンバーこぞって参列しました。
中江社長のご挨拶のあと、堺市長祝辞に次いで私が挨拶を述べました。『このたび朝日新聞社より三菱重工は始めて新聞輪転機の注文を頂きました。
朝日新聞社のご注文は、新聞輪転機はこれがはじめてですが、昭和12年に鵬程1万5千kmの記録を達成した飛行機「神風号」のご注文を頂いており
ます。つまり、53年振りに再び御注文を頂いた事になり、本当に嬉しゅうございます。フランス航空省の東京-ロンドン間100時間懸賞飛行に
神風号が挑戦・成功した当時、私は小学3年の軍国少年として、仲間と共に熱狂して歌った記憶があり、おそまづながらその時の歌を歌わせて頂き
ます。
♪♪ 銀翼燦と輝けぱ さえぎる雲の影もな<
希望はばたく朝ぼらけ 征けよ「神風」空遠く
万歳万歳 万々歳 ♪♪
お粗末でした。若し新聞輪転機が「神風号」同様にお役に立ちましたなら、53年よりもう少し早めに、次のご注文をお願い致します。 おめでとう
御座いました。』
調子外れの祝辞に失笑される人達が多い中に、ハンカチで目頭を押さえている老婦人に気ずき、不思議に思いながら中江社長の横に壇を下りた
ところ、其の老婦人は静かにわたし共の前に来られました。 帽子をかぶり正装のさわやかな令婦人でした。
『私は村山美智子と申します。神風号が立川飛行場をロンドンに向けて飛び立つ時、女学校4年生の私は数十人の友達と、あなたがいま歌ったその歌
を合唱し、神風号機上の飯沼飛行士と塚越機関士に花束を捧げました。 あの歌は私が作りました。何十年振りにあの歌を聴いて涙が止まりません
でした。50年も、良く覚えていて下さって有難う。中江社長さん。この方には53年ぶりといわず、毎年でも注文を出してあげて下さい。』
この老夫人は、神風号壮挙の時の朝日新聞社会長・村山長挙(ながたか)氏の令嬢で、現在は朝日新聞の社主だったのです。思いがけぬ成り行きに
私は驚縮してしまいましたが、中江社長は大変喜ばれました。
おかげさまで?、その後は引き続いて朝日新聞より輪転機のご注文を頂いており、現在、堺を始め京都・北九州・千葉・北海道などに20台もの三菱・
輪転機が活躍しているそうです。【2011年11月現在、朝日新聞社に輪転機24台(340億円)・系列会社日刊スポーツなどに約20台(320億円)納入した
由】
あとで伺いますと、神風の歌の作詞は北原白秋で、作曲が村山美智子さんだったそうです。 甲南高等女学校に音楽の英才教育に熱心な先生が
いて、神風号に熱狂した先生は全生徒に作曲をさせ、其の中で村山美智子さんの作曲が一番優れていたので、レコードとなって売り出されたのだそう
です。
中江社長はじめ列席の朝日新聞の社員の方々は、勿論、朝日新聞の歴史的栄光として、神風号の壮挙を良<ご存知でしたが、神風号の歌が社主・村山
美智子さんの作曲であることも、神風号が三菱重工製・偵察機ということも、どなたもご存じなく、私の話にちょっとどよめいて三菱への親近感も
高まったようでした。
神風号は見事に95時間でロンドンに到着して賞金を獲得しました。 朝日新聞は神風号の帰路を利用して、ジョージ6世戴冠式の写真を東京に
空輸し、シベリア鉄道で2週間かかって運んだ他の新聞社に差をつけました。 朝日新聞社としては飛行記録への挑戦のほかに、戴冠式情報の速報
で、他社を出し抜<狙いがあったようです。この壮挙によって、朝日新聞の発行部数はー挙に毎日新聞を抜いたそうです。
神風号の半年くらい前にフランス青年・ジヤッピー飛行士が、小型飛行機の単独飛行でパリより東京を目指して飛来し、見事に75時間の好記録で
福岡上空まで到達しました。しかし、給油の為、雁の巣飛行場に着陸しようとして雲に巻かれ、背振山(佐賀県)に激突して重傷を負い、雄図むなしく
挫折した事件がありました。私共九州の少年達は、近くの山で起きたジヤッピー飛行士の無念に子供心に胸を痛めました。その半年あとだけに、
神風号の快挙は日本中を沸かせました。 しかし、神風号が三菱製であることは、三菱の膝もとの長崎でも余り話題にならなかったように思います。
朝日新聞の快挙に刺激されたのでしょう。毎日新聞も昭和14年に『にっぽん号』で世界初めての世界一周飛行に挑戦して見事に成功し国威を揚げ
ました。『にっぽん号』も三菱重工製・96式陸上攻撃機でした。『にっぽん号』の歌も、軍国少年の私は今も歌うことが出来ますが、毎日新聞の
輪転機の竣工式に出席した事はありません。
♪♪ 国を埋めた日の丸の 歓呼の中に羽ぱたいて
我が「にっぽん」はまっしぐら 8万キロの空を飛ぶ空を飛ぶ ♪♪
【註】神風号とその記録
昭和10年7月・高速・長距離・2人乗りの戦略偵察機として、陸軍より
三菱重工に2機発注。
設計は河野文彦係長(後・三菱重工社長)久保富夫技師(後・三菱自工社長)。
初飛行は昭和11年5月。 納期10ヶ月。この素早さを見よ!!
翼長12m・機長8・21m・低翼単葉・単列星型空冷発動機550馬力・
全備重量2・3トン・最高時速500km/h ・ 航続距離2500km。
96式艦上戦闘機(昭和9年)→神風(昭和11年)→零戦(昭和15年)と改善・
完成された。
神風は完成後、陸軍が制式化を保留していたので、朝日新聞が陸軍の
許可を取り、亜欧連絡大飛行用『神風号』として2号機を購入。
機名『神風』は懸賞募集応募536,507通から選ぱれた。
■神風号の記録:東京-ロンドン間1万6千キロ:94時開17分56秒
当時「神風画報」(朝日新聞社)に掲載されたルート図
昭和12年4月6日午前2時12分4秒・立川飛行場離陸
公式の出発は4月1日羽田s飛行場であるが滑走路が短く燃料満載では離陸困難のため立川飛行場で燃料を追加して出発した。
午前9時14分29秒台北空港着陸
午後16時22分:ハノイ空港着陸
午後? ピアンチャン空港着陸
昭和12年4月7日午前8時24分 :ピアンチャン空港離陸
午後2時IO分 カルカッタ・ダムダム空港着陸
午後? カラチ'空港着陸
昭和12年4月8日午前? カラチ空港離陸
午後? アテネ空港着陸
昭和12年4月9日午前? アテネ空港離陸
午前 ローマ・リットリオ空港着陸
午後2時34分 パリ・ル・ブルジエ着陸:日本発93時聞
昭和12年4月9日午後3時30分・ ロンドン・クロイドン着陸・
日本発からの経過時間:94時闘17分56秒
実際飛行時間:51時間19分23秒 平均速度162・854km(含・休憩時間)
■ジャッピー氏の記録:パリー九州間75時開44分(背振山に激突)
原技センター・故・相賀正男部長は、九大病院の医師をしていた父上が、入院したジャッピー氏を治療したと言つていました。ジャッピー氏は
九大で治療の上、船で帰国し、パリに到着した飯沼・塚越・両飛行士をル・プルージエ飛行場に出迎えたそうです。
■パリー東京間の過去の最短飛行記録:165時間53分 (昭和3年・フランス人 コスト・ルブレ飛行士)