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世界最長の海上橋「香港・珠海・マカオ大橋」完成と私の中国珠海  緒続 真人  New!  



香港と珠海(中国広東省)の間にかかる橋が遂に完成した。
昨年10月、珠海で行われた橋の完成セレモニーの様子は日本でも報じられ、
テレビで見ていた私は飛び上がり「ヨシ!!珠海に行くぞ」と、行動をおこした
のが今回の旅である。
私には「完成したらこの橋をわたる」という珠海で、心に誓った事が あった
からだ。 それは一体何だったのかを以下に述べ、今回の旅の話しに戻りたい。

 

1.珠海発電所建設工事・現地所長として赴任

珠海の地を初めて踏んだのは、1993年5月、 中国珠海発電所建設案件が浮上し、その現地調査の時であった。
700MW石炭焚ユニット2基に土地造成・護岸工事を含むシングル・テンダーでのフルターンキー工事という超大型案件であった。乗込んだ珠海は
中国経済特区のひとつとして開放政策のもとに発展成長をとげ、中国らしからぬ明るさとに活気に満ち溢れ、すっかり気に入ってしまった。そこで
「受注の暁には、ここの現地建設所長だ」と、内心勝手に決め込んだのだ。
その後、紆余屈折はあったものの、最終的には欧米企業連合一社と競う形となり、これを制し1996年11月受注に漕ぎ着けた。さらに、私の思いも
叶うこととなり、1998年3月、建設所長として珠海に乗り込んだのだった。
以降、2001年5月の最終帰国までの約3年間を、この珠海現地で過ごした。幾多の困難や苦しみ、それを乗り越えての喜びや感動を味わい、私の人生
後半の大きな1ページを彩った舞台が、この地、珠海であった。その間の出来事を振り返れば、昨日のことのように蘇り、身震いをするような緊張
を覚える。この中からいくつかの場面を切り取りとり紹介しておきたい。

(1)1号ボイラ火入達成
ここにいたるまでに幾多の困難があった。
それは、土建工事の遅れ、図面の遅れ、部品の不足といった、当時どの建設工事も抱えてきた問題に加え、中国でのフルターン建設工事には、法律
に基づく検査や審査の壁が大きく立ちはだかっていた。さらに重工原動機が挑む中国での初めてのフルターンキー工事で、協業するレイセオン社と
衝突・紛糾することも多く、現地のフラストレーションは高まるばかりであった。

こういう中でも現地全員がそれぞれの持ち場で
懸命に耐え抜き、迎えたボイラ火入れであった。
賓客を招いての点火セレモニー設けられていたが、
工程がひっ迫しこれに向けてのバーナ着火テスト
不十分のまま臨まざるを得なかったのである。
バーナ点火ボタンが操作され、しびれる一瞬。
その瞬間、炉内テレビに映しだされたオレンジ色の
対向火炎。本番の最初の一発で、見事に着火を成功
させたのである。湧き上がる拍手のなか、こみ上が
る涙を抑えきれなかった。
その日の夕刻、あらかじめ現地事務所に準備していた
ボイラ銘板。その裏側に、当日の三菱現地全員が,
この日の感激の余韻を残しながら署名した。








 

 

(2)全ユニット完成引渡セレモニー
(完成した発電所(写真下左)とセレモニーの光景(下右))

後で述べる1号発電機のトラブルのため、2号機を当初工程より1ヶ月早めて2000年4月に初号機として引き渡し、1号機をそれより遅れて引き
渡すこととなった。
2001年2月5日、1号ユニットは30日間の信頼性試験(RTR)の最終日を迎えていた。
この日の夕刻、全ユニット完成引渡しセレモニーのため、アドミビルの発電所玄関ホールに賓客、報道陣が招待されていた。
信頼性試験の完了予定時刻は19時。正にこの時刻に中央制御室から式典会場に「無事完了」の報告が入る。同時に列席した関係者から喚声と
拍手がわきおこる。
その後、オーナー合弁会社社長そして三菱コンソーシャムを代表して私が挨拶を行った。着席しTOCの署名、シャンパンによる乾杯、地元
マスコミのインタビューのあと、軽食ビュッフェに歓談と続いた。
その後、私は現地事務所に戻り、居合わせた現地関係者一同で乾杯し、安全ダルマに目をいれ、万歳を三唱した。
ここに至る道のりは長かった。
1号ユニットは上述のとおり99年6月にボイラの火入れを達成後、タービン通気、併入、負荷運転と順調に推移し、契約納期での完成引渡し目前に
まで迫っていた。そこに、発電機三相短絡という大事故が発生してしまった。(発電機はW社製)
納期遅延、それも莫大な額の損失を覚悟しなければならないこの事態に、現地はその力を「2号ユニットの早期完成」に結集することに切替えた。
これにより、損失を最小にすることを考えたのだ。
結果、2号ユニットは客先の理解を得ながら、契約納期を約1か月繰り上げての引渡しを達成した。
一方、被災した1号発電機はローターを上海STGC工場で修理後、現地試運転を再開したものの、工場での修理不備があり、再び修理のため工場送
りとなった。修理を終えて現地帰還、試運転を再開し、上述の2001年2月5日の完成引渡しとなった。
目論見通り運んだ建設ではなかった。
2回にわたる発電機の工場持ち出し修理でズタズタになった建設工程。
でも、そんな困難を乗り越え、我々が苦労を重ね建設した発電所が、今、ここに立派に誕生したのだ。


(3)長船マンの日常生活と現地運営


 各持場での現地長船マンの奮闘こそが、本建設工事推進の原動力
 であった。彼らの日常生活、これを支える現地運営についても
 紹介しておきたい。
 ・指導員宿舎は、オーナーJVが民間アパート(7階建)を借り
  上げ、改造して斡旋された。ここには「専家村(専門
  エンジニアが居住する場所)の看板が立ち、付近では有名な
  場所となった。
 ・トイレ浴室は共用なるも個室にはNHKの衛星放送が視聴できる
  テレビと国際電話が可能な電話が備わっていた。
 ・個人で携帯を持てる時代ではなかっただけに、本邦との電話
  連絡は家族との絆を保つ手段として大きかった。
  ただ、酔って家族に電話し、繋いだまま寝込み、想定外の電話
  代を請求される仁もあり、注意を喚起していた。
 ・宿舎内に、食堂フロアを設け、ここで日本食を食べられるよう
  コックや厨房設備も整えていたが、欠食者が続出。理由は近くに
  安くて美味しい中華食堂が多数あり、そちらに流れたこと。
  その対抗処置として、腕のいい日本食料理人、愛嬌よしでかわ
                                      いいウェイトレスの採用等により改善を図り、利用者を増やす
                                      ことに腐心した。
・ドラム揚げ、火入れ、タービン通気・併入達成等の節目には現地事務所裏広場でバーベキューをし、中国人指導員、通訳、フィリピ人指導員も
 交え、皆で喜びを分かちあった。
・休日は、通勤用、事務所‐現場間シャトル用のバスを珠海市内へのショッピングバスとし提供した。
・98年6月はワールドカップがフランスで開催(日本は出場したが中国は出ず)、中国でもサッカー熱が盛り上がり据付工事会社(GPEC)チームと
 三菱指導員チームが対戦することになった。結果、惨敗はしはしたものの楽しい思い出での一つである。
・中国の生活で触れておかなければならないのは白酎(バイチュー)と称す超高アルコール濃度(最高60度)の飲み物。これで、長船マンは全員
 一回は死んでいる(私も例外ではない)
 客先幹部との宴会はあっさりしているが、それ以外の宴会は恐怖である。ここでは白酎(バイチュー)の一気飲みを強いられる。
 これに負けては仕事はできない、そこで私が考えた対処法(緒続流):「乾杯!」と杯を上げたら、飲んだふりし、盃を降ろす際、中の液体を胸に
 ひっかけ、空になった盃の底を見せる。元気よく堂々とやれば、ばれることはない。ただし、宴の終わりにはパンツ(その中のモノ)までも
 ジュカジュカになる。黒ジャケット、黒ズボン着用が必須。いずれにしてもばれた時の反撃は凄いものがあるから覚悟しておかなければならない。

上述は、中国でのフルターンキー工事珠海現地での長船マンの様子と現地運営の一端である。



2.サービス担当として再び珠海発電所へ
珠海発電所建設所長の任を終え帰国した私は、その後、関連企業への出向/転籍を経験した。そして2007年より三菱に復帰し長崎サービス部に職を
得た。ここで、アジア地区担当を任じられ、マニラを拠点に(後にバンコクへ拠点移動)この地域に納入した発電所のサービス拡販活動に携わる
ことになった。
ここでまず、最初に訪問したのが、この珠海発電所であった。手がけた珠海発電所の1号、2号ユニットのトータル出力140万キロワットはこの
地区は勿論のこと、広東省全域のインフラを支える大きな柱となり、中国で最も信頼できる発電所としても、その存在を揺るぎないものとして
いた。6年ぶりの珠海発電所では、大歓迎を受けた。その夜の宴は、当時の関係者も大勢駆けつけてくれての大宴会となった。
これは私の為だけに開いてくれた宴ではなく、建設に携わった三菱全員への感謝を表す催しであったに違いない。
その後も珠海には頻繁に訪問した。当社が開発した超低NOx(M-PM)バーナをいち早く採用してくれる等、文字通り重要顧客であった。


3.海上橋の計画が浮上し工事が開始される
珠海を訪れる月日の中に珠海-香港間の海上橋建設計画の話しを聞いた。珠海の沖に工事の船団が現れ、海上から杭が立ち、橋梁が形になって出現
し始めた。

この風景に重なったのが、発電所建設当時、オーナー合弁会社の社長から貰った長さ5メートルにも及ぶ大絵巻であった。そこには香港から
珠海にかかる海上橋が画面いっぱいに描かれており、これに関わる壮大なロマンを語ってくれた。

【海上橋が描かれた絵巻(海上橋部分)】
絵のタイトルの意味は「洋上の虹の架け橋」。香港・珠海の橋の建設はこの地域の人々のロマンを乗せた夢の未来でもあった。

右側の絵の右端側に香港九龍半島があり、橋はここから始まり左側の絵の珠海へと延びていく。左側の絵の中央には鉄道の駅もあり、さらに
画面には見えないが発電所も描かれている。まさに当時の夢が満載である。 実際に今回完成した海上橋は、香港国際空港のあるランタオ島
が起点となり、島を経由せず、直接珠海へとつながる。この時の夢であった鉄道は既に完成し、新幹線が中国全土に走っているし、発電所は
三菱が建設した。尚、左側の絵の下方には地続きのマカオの街並も描かれている。

 

そんなこともあり、珠海を訪問するたび、工事の進捗を、特別の興奮を持って見守ってきた。しかしながら、2016年の春になり、三菱でのこの職
からリタイアすることになった。橋の完成を見ずして去ることに、この地に仕事を残してしまったような無念を覚えた。そこで、「橋が完成したら
必ず戻ってきてこの橋を渡る」と心に誓ったのだった。

 4.珠海で残した仕事を終える旅
 かくして、冒頭に述べる今回の旅のとなり、さる3月9日、長崎から香港に飛んだ。その夜には海上橋の上を走る珠海行きの2階建てのシャトルバスに
 乗っていた。バスは、闇の中、洋上を走り抜け、瞬く間に珠海イミグレターミナルに到着していた。
 所用時間はわずか40分であった。



翌々日、復路、珠海から香港への移動も海上橋利用である。
今度は昼間、車窓の景色をじっくりみるため、シャトルバスは2階の前方席を確保。シャトルバスは静かに珠海イミグレターミナルを発車し、
すぐに洋上へと出る。走行する車の数は予想外に少なく、橋路上に孤独の影を落としながら黙々と走る。道路は時折、大きく右や左にカーブして、
その都度、海面から突きあがる橋げたのアーチ部を見せ、優雅な造形を水面から現す。はるか遠くに小さくなっていく珠海の街並みを見ながら、
ここでの思い出に浸る。そうするうちに、バスは香港側接続部へ通じるトンネルへ入っていった
こうして、この「完成なった海上橋を渡る」という私の旅は終え、珠海と区切りをつけた。
1993年、珠海の地に初めて足を踏み入れてから26年、約四半世紀の時を経ていた。


5.結び
海上橋の完成は、中国広東省と香港、マカオを一体化する大経済圏構想「大湾区(Big Bay Area)計画」の一端でもある。ここには、この地域の
人々の営みをも変えながら進む大きな歴史の流れがある。
この流れを支えているのは、我々が建設した珠海発電所の安定した電力供給にあることは間違いない。これは、1号ボイラの火入れ達成時、ボイラ
銘板の裏に万感の思いで署名を残した仲間たち、本邦で懸命に支援してくれた人々、その他、関係した全員の汗と努力の結晶でもある。
このことに思いを馳せながら、この地域の歴史の流れを、生ある限り、ずっと見守って行きたい。

以上