皆様からのお便り(松永 巌様)

松永様のお宅は現皇后陛下・雅子様ご実家の近くで、ご結婚前の秘話について投稿頂きました。とても興味ある記事ですのでご一読ください。伊藤

屋上ベランダ - 小和田雅子様御婚礼秘話    松永巖様

昭和51年(1976〉の1月、大田区に35坪 (115m2)の土地を見付けて購入契約をした。坪75万円であった。
 契約直後の或る日、上司に呼ばれて執務室に入った。すると「松永君、土地を買ったそうだが、家を建てるのは暫く待ち給え」と言われた。『何故ですか?』と尋ねると、「シカゴ駐在の岡山君が帰るので、その後任に行って貰いたいのだ」とのご返事、社命とあらば仕方なし。購入した土地は、駐車場として不動産会社に管理を依託することとした。
 約5年の米国勤務を終えて、昭和55年(1980)本社部長に着任した。早速、土地は更地に戻し、自宅の建設計画に入った。
 場所は東京工大の近くで、環状七号線(通称環七)からワン・ブロック入った東南の角地であるが、環七の騒音は想像を絶するものがあり、先ず遮音性の高いALC(軽量発泡コンクリート)建材とすることにした。この代表的製品はHハウスで、この角地には既に二軒がHハウスにしてあり、話を聞き私も同じ物に決めた。
 基本的にはドイツの会社の設計であって、外壁と内壁の間に10cmの空間があり、ここに鉄骨が収まり、且遮断性、保温性、結露に強く、二階建である。屋根は普通の合掌タイプでは無く、ピルの様に完全にフラットであり、ベランダとして使用出来る設計である。
 従って屋根には特殊なブロックが敷き詰められて居り、これを固定するため特別な方法が取られて居る。
 この屋上ベランダに上るための手段として、外部から直線階段で昇るか、二階のベランダから螺旋階段で昇るかの二つの方法が考えられた。螺旋階段の方が便利で恰好も良いが値段が高い。二者択一を迫られたが値段を犠牲にして螺旋階段にした。
 鉄製であり、防錆のため、定期的に塗装をする必要はあるが、便利で体裁が良い。
屋上に太陽熱による温水投備も考えたが、採算が取れぬため取止めた.その結果、二階の屋根全部が広々したベランダになった。
 風当たりが強いので、高い物や洗濯物は置けないが、背の低い物置きなど重量物を入れて置いた。何よりも、ここでゴルフの練習が出来るのが楽しかった。時々ぺットの犬も連れて上ったが、小さくて柵を抜けてギリギリまで身を乗り出すので見て居れなくて、連れて行くのは止めた。


このベランダでの最大の想い出は、新皇后雅子さまの事である。雅子さまの御生家小和田家は、私の家の東側の道路を環七を突っ切って進んだ道路添いにあり、歩いて数分の距離で、犬の散歩で通った事もある。 当時、皇太子殿下(現天皇〉がお忍びで、お越しの事もあるらしく、その様な時は、拙宅の角にも警官が立って居る事もあった。

平成5年 (1993)6月9日雅子さま御婚礼の日、雅子さまのお車は小和田家の前の道路から環七にお出になり、左折してお越しになる事が解って居たので、家内も含め近所の人が環七に沿って黒山の様にその時を待って居た。
私は家の屋上ベランダに上れば一望出来ると思い、ギリギリになって屋上へ上った。その時である。ボリューム一杯のスピーカーで「松永さん!屋上に上るのは止めて下さい。その儘でいるとヘリコプターから撃たれますよ!」と怒鳴られた。高い所から見下ろすことは不敬に当たると言う。家の前に立った事のある警官であった。近所中に聞こえたと思うと、今考えても汗顔の至りであると同時に雅子さまの晴れのお顔を拝することが出来なかったことは、皇后陛下にお成りになった今日、残念で仕方が無い。
この家は、年老いて一戸建てに住むことは負担が大きいと言うことで、平成17年(2005)姉の孫夫姉に譲って、現在の横浜の高層マンションに居を移したが、Hハウスは築40年近くになっても健在である。
 (2019.5.10)