長機会に入会された梅田和子様からご自分の重工時代を振り返り投稿頂きました。梅田さんは今風に言えば「リケジョ」のはしりで津田塾
大学数学科を卒業後長船に入社され、女性で初めて主任そしてグループ主務に任命され、ボイラー設計の効率化や図面・技術資料管理
システム(GIZUMO=ギズモ)開発など原動機事業の発展に多大な貢献をされました。かなり長文ですが、長船が辿った電算化の
歴史もわかりますので最後まで完読してください。(伊藤)
この度「長機会」に入会しました元長崎造船所火力プラント設計部SEグループの梅田和子です。
今後とも、よろしくお願いいたします。
<重工に入社した、その日私の人生が変わった>
昭和44年(1969年)7月21日(月)アポロ11号が月面着陸した日に三菱重工長崎造船所に入社しました。後で考えると
この日が私の人生が豊かに変わった日になりました。
大学を卒業したその年は長崎で国体が開催されることになっていました。対馬の比田勝高校の数学の教師として赴任すること
になっていましたが、国体が終わるまで自宅待機との連絡がありました。 当時国体を開催する県は天皇賞・皇后賞を取るため、
体育の先生が国体開催県を廻ることが当たり前で数人の友人も自宅待機になっていました。
7月に入り、長船人事課から電話があり、もしよければ来ませんかと・・・面接と身体検査の後、一週間後の21日朝8時に
会社に来るようにとの話があり、出向いたところ、連れて行かれたのは造船設計部船体設計課基本係でした。
まさか、その日が入社の日になるとは・・・帰りに県庁の教育委員会に断りに行きました。偶々教育委員会には小学校時代
の担任の先生が居られ、女の子は学校の先生が良いのにと言われましたが、もうどうしようもありませんでした。
当時長崎研究所計装研究課電算係には44年同期入社となる3名を含め、5名の女性社員が在籍されていましたが、長崎造船所
では初めて採用した女性技術職社員だと聞いたのはその後でした。
その時、今後入社してくる女子社員のことを考えると責任の重さを強く感じました。また母塾の創立者津田梅子先生の名を
汚さないためにも頑張らなければならないと強く思いました。
<造船設計部時代 船体設計課・見積調査課>
入社した日、机の上にはハードカバーの分厚いロイド・ルールの本が置いてありました。仕事はロイド・ルールのプログラムを
作成することでした。 大学で少々プログラムを学んでいましたが、言語の違いもあり、長崎研究所計装研究科電算係に修業に
出され、「許容剪断応力プログラム」を作成、2ヶ月後に戻りました。そのおかげで、研究所の方々とも知り合いになりました。
ルールプログラムの作成後、MHDS(Mitsubishi Hull Data System)システムの制作に携わりました。
2年間船体設計課に勤務、その後見積調査課に移り、他事業所と分担して、船価を見積もる膨大なSCOPE(Ship Cost Estimate Program)というシステムの長船担当分を手掛けました。当時は1ドル360円の時代でした。見積調査課では船装
設計課のプログラム化のお手伝いもしました。
見積調査課に5年、造船設計部には7年間勤務しました。見積調査課に在籍中に結婚、長男が生まれました。
造船設計部時代、香焼工場が稼働を開始したこと、第一次オイルショックの時、本社から出張で見えた方のお土産はトイレット
ペーパーであったことを思い出します。
<火力プラント設計部 陸用ボイラ設計一課構造設計係・計画係(CAD室)時代>CAD: Computer Aided Design
昭和51年(1976年)7月火力プラント設計部陸用ボイラ設計一課構造設計係に転籍しました。
東藤課長、土屋係長の下、横山さんから依頼の最初の仕事は本社で作成されたプログラム(Large Boiler System)の
アウトプットを長船のプロッターで出力できるように変更することでした。構造設計課に移動した目的はWW(Water Wall)
システム、TUBEシステムの開発でした。研究所で開発されたPIPEシステムを使用して、開発を行いました。
1年間の予定でしたが、オイルショックの影響もあり、そのままボイラ設計一課に残ることになりました。 ボイラ設計に残れ
たのは、その後仕事を続けるうえで、幸運であったと思います。昭和55年構造設計係から金子係長の計画係に移動しました。
翌年長菱エンジニアリングに女子社員5名が入社し、長菱設計にも数人の社員が入社、ボイラの設計・性能計算、強度計算など
コンピュータ関連の業務を担当しました。その彼等、彼女等の協力を得て、CAD室の担当になりました。その方々とは
重工定年まで、仕事を共にしました。
数年後高塚さんから、私がCAD室の責任者になることで、女で大丈夫かとの声があったそうですが、金子さんが、
「彼女なら大丈夫です」と言ってくださったと・・・金子さんに足を向けて、寝られないよと言われました!!
昭和58年頃から、CADの利用が始まり、重工(技術本部技術計算センター:神戸在住)と三菱電機で「IMAGE」という
自社CADソフトの開発が行われました。そのIMAGEシステムをベースにWW・CAD、TUBE・CADシステムの開発を
技術計算センターのメンバーの協力を得て図面を描く段階で、TUBEの材質・外径・管厚等の属性データを付加するシステム
の開発を行いました。
そのことで、購入要求書を始め、重量計算、溶接情報などのアウトプットが可能になりました。
IMAGEシステムを利用するために、三菱電機のマシン(ホスト機と端末)を導入すべく、本社の特別建設費(特建C)
の申請を行いました。
その時本社原動機事業部から勝代さんが審査に見え、必要性を理解していただき、CAD室にEWS(Engineering Work
Station)を数台並べることができました。 その後、3度の特別建設費伺いで、CAD室にはEWSが数十台並び、カラー
プリンターなどの導入もできました。
<女性初の主任になって>
昭和59年計画係の主任を拝命しました。重工で初めての女性主任で、長研の原美登里さんも一緒で、全社で4名でした。
このことは当時新聞に載るほどの出来事でした。頑張ってきてよかったと思う反面、更なる責任の重さを感じました。
多くのみなさまの推薦で、全社のIMAGEユーザ協議会第3代会長を務めました。
神戸造船所の中部電力との共同研究に声がかかり、CADをベースにした「保全管理システム」 の開発を手伝うことになり、
本社、神船、長船で共同開発することになりました。神船に毎月のように通うようになりました。阪神淡路大震災後は本社での
打合せに代わり、本社に通うことになりました。中部電力との共同研究の後、CADシステムを利用して、GWS(Graphics Work Station)にボイラチューブの形状を3次元表示、あらゆる角度から、検討できるようにしました。 特に勿来の石炭ガス
化炉の形状は複雑で,可視化することで、見えることが増え、その現図も手掛けました。この現図は二工作の現図部門の方々に
喜ばれ、それからは二工作の現図グループの方がよく相談に見えました。
そのころ、CAD室に並んだEWSを見て、ヒューレット・パッカード(HP)社の営業の方がここにマシンを置くことはよい
宣伝になるといわれ、ハード(GWS)は円高の恩恵で安価に導入でき、ソフトの開発にも協力をしてくださいました。
アメリカのHP本社から見えた技術者の方がその出来上がったシステムを見て、貴女がやりたいことはよくわかると言って
くれました。
勿来とは電話回線を繋ぎ、運転状況を長崎でも得られるようにしました。そのため、勿来にもEWSの設置に出向きました。
夜の常磐線で後の席から聞こえてくる言葉に遠くに来た~という気がしました。この時のEWSはベンチマーク・テストを行い、
住友電工のマシンを採用しました。
<火力プラント設計部・SEグループ時代>SE: System Engineer
平成3年に火プ設部直属のSEグループとして女性新入社員2名を迎え、 4 名で発足しました。
SEグループの名づけ親は檜原火プ設部長でした。新しいグループとして、さまざまなことに挑戦しなければと奮い立つ
思いでした。
また、火力サービス課の黒田さん、小林さんに同行し、北海道電力、東北電力、東京電力、北陸電力、中国電力、九州電力、
酒田共同火力に「保全管理システム」の重いパソコンを持参、プレゼンを行いました。そのような中、東京電力とは
「補修支援システム」のワーキングが決まり、酒田共同火力発電所にシステムに納入が決まりました。酒田共同火力発電所には
数回通い、EWSを納品しました。数度の酒田行きで、藤沢周平の「庄内」を感じることができました。
SEグループには平成4年に2名、5年に1名、7年に1名、8年に1名、10 年に1名の女性技術職の新入社員を迎え、社員
10 名、協力会社 20 数名の大きなグループになりました。
男女雇用平等法により、平成になって採用された女性は男性と同等な扱いを受けるようになり、若い人たちの伸び伸びとした元気に勇気をもらいました。
平成4年にグループ主務を拝命しました。男女雇用平等法ができたとはいえ、重工で課長級になるとは思ってもいませんでした
ので、驚きました。
関西電力と長崎研究所の共同研究の超音波でSH・RH(Super Heater・Re Heater)の管厚をロボットで測定するシステムの
結果表示システムの作成依頼の電話を研究所の岩本さんより受け、開発に携わりました。何度か定検工事にも同行しました。
EWSの画面上に測定結果を管厚によって赤・黄・緑で表示、即プリントし、取り換えるTUBEを選定することが可能になり、
喜ばれました。
<GIZUMOの開発>
平成8年に図面・技術資料管理システム(GIZUMO)を三菱商事と開発し、立ち上げました。
図面と技術資料を電子化することで、必要な図面などをいつでも検索可能にすることが目的でした。この三菱商事のシステムを
導入するにあたっては、いくつかのメーカの見学を行い、どのようなシステムがよいかを検討しました。導入に際しては、
富永副所長、勝代機管部次長、岩永火プ設部長の支援を受けました。
稼働前に過去の図面、標準図を入力することとし、リョーイン社に依頼し、学生アルバイトを8名採用してもらい、その作業を
お願いしました。
1年後に設計部門には紙での出図を止め、前日出図された図面番号を担当者毎に関連する出図リストを自動配信、必要な図面
のみリョーインに印刷依頼を行うか、必要な部分のみを近くのコピー機にプリ ントできる機能を作成しました。
田村機管部長の支援を受け、図面の出図を行わないことを設計者に理解してもらう説明会を10回開催しました。説明は当時の
プラント設計課の長尾課長にしていただき、設計者の了解を得て、稼働することができました。
2年後には印刷費をほぼ半減(13億円→7億円)することができました。
一工作・二工作部に 21インチのEWSをそれぞれ5セット導入、大きな画面で図面を確認できるようにしました。
ある月曜日、二工作からトラブルがあったボイラの図面が休日にもかかわらず、すべてプリントでき、助かりましたと筌口さん
から電話があり、役に立ったと嬉しく思いました。
電力会社との間で技術連絡書の電子化(電力CALS:Commerce At Light Speed)の話が起こり、溜池山王にある
電気事業連合会で、プラント関連会社が集められ、打合せが行われました。その 打合せに重工を代表して、出席し、
他メーカ(石播・日立・東芝・荏原・・・)の方々と、会う機会に恵まれました。
電事連からはデジタルデータを求められましたが、メーカは電子化といっても、スキャンした情報とすることで、一致し、
最終的にデジタルデータにはなりませんでした。
平成13年(2001年)3月31日に重工長崎造船所を退職しました。
昭和44年(1969年)7月21日から約31年間弱の重工長崎造船所勤務でした。
造船設計部・火プ設部時代、仕事にも、上司にも恵まれ、楽しい会社生活が送れたと思っています。
仕事は工夫することで、楽しくできると思いました。
いくつか担当した業務について、記載しましたが、うろ覚えなことがあり、前後していることがあるかと思います。
ご容赦願います。
SEグループ時代の最後の上司は和仁次長で、苦しい局面で、支援をしていただき、力をいただきました。
<リョーインに移籍して>
平成13年(2001)4月1日にリョーインに移籍しました。GIZUMOでリョーインに支払われていた印刷費は半減しました
が、当時の河合社長からは時代の流れだからと言われました。
長崎県産業振興財団の専務理事をされていた末光さんのお手伝いとして、長崎大学・工学部・環境科学部と「長崎県GIS
(地図情報システム)研究協議会」を立ち上げ、中小企業の仕事を作るための方策を練りました。その中で、三菱商事の協力も
あり、国土交通省の仕事を受注しました。
また電源開発(J-POWER)が民営化にあたり、GIS事業(STIMS:時空間情報システム)を明電舎・昭文社と
立ち上げるに際し、電源開発さんからリョーインも一緒にと声がかかりました。社長の指示もあって、全国行脚(北海道から
沖縄まで)の県庁へのプレゼンに同行しました。
長崎県庁水産部の「養殖データベース」にSTIMSの採用が決まり、リョーインがデータ入力作業を受け持ちました。
データ入力は県庁の指示によりハローワークでパートの方を簡単なテストを行い、採用しました。
当時としては一時間のパート代をかなり高めに設定したところ、みなさんから反対されましたが、優秀な方が集まり、仕事が
はかどり、ミスもほとんどなく、よい結果となりました。システムは明電舎が開発、長崎県庁、対馬、壱岐、五島支所に
システムを納めました。
蛇足ですが、この時初めて、大学卒業後勤める予定であった対馬に出かけました。一日早く日曜日に対馬に出向き、空港で
「比田勝高校まで」と言ったところ、運転手さんから「そんな学校とっくにないよ」と言われました。「せめて跡地でも」
というと「跡地もない」といわれました・・・さらに、林野庁の仕事も入札で昭文社とリョーインが受注、(入札条件の
ISO14001の資格をリョーイン本社が持っていた)リョーイン本社に手伝ってもらい、対応しました。
その後、リョーイン長崎で長崎県庁の農林部の仕事を受注することができました。
平成17年(2005年)9月30日を持って、60歳でリョーインを退社しました。
多くのみなさまのおかげで、充実した会社生活を送れたことを感謝しています。
「重工に入社して、よかった」と思っています。ありがとうございました。
その後は定年まで働くことができたことのお礼にと、頼まれたことは断らないという主義でいくつかのボランティアを続けて
います。新しい出会いにも恵まれ、それなりに忙しい日々を過ごしています。
お読みいただき、ありがとうございました。
【左】筆者が古希の時の記念写真(約5年前)
【右】左から池本えり子さん、筆者、荒岡衛さん、横山知充さん(CAD室時代から長年筆者を支えてくれた人達です)