皆様からのお便り 「ラストダンスin長崎~ 社交ダンスの想い出とコロナ禍 伊藤一郎」

ラストダンスin長崎 ~ 社交ダンスの想い出とコロナ禍    伊藤一郎

1.社交ダンスとの出会い

 私が社交ダンス(現在は正式には「ボールルームダンス」と言いますがここでは分かりやすく「社交ダンス」と言います)を 始めた
は1983年 2月で長崎・鍛冶屋町にスタジオがあった「長崎ダンスアカデミー」(令和2年12月末に閉鎖)に夫婦で 通い始めたのが
最初です。
 あれこれ37年間 習っていました。とは言っても海外出張や海外駐在(メキシコ、コロンビア、米国) もあり、また10年前には東京
に移動しているので、継続的なキャリアがあるわけではないですが、今や自分の人生でゴルフと 並んで一番長い 趣味になっています。
 そもそも何故社交ダンスを始めたかと言えば、メキシコで語学留学中に有名な観光地 アカプルコに旅行に行った際、 死のダイビング
(ラ・ケブラ-ダ)で有名な湾にあるレストランで食事している時、野外のダンスステージで多くの外国人が 夫婦や友人同士で踊って
おりました。我々日本人は指をくわえてみていただけですが、その最後に「ラストダンス」のコールが あった際、その大勢いたカップル
の中から皆で目配せして一組の白髪老人夫妻だけがステージに残されて「ラストワルツ」の 音楽と共に本当に仲睦まじくワルツを踊り、
周りのお客様からから大変な拍手喝采を浴びたのを見た時の衝撃的な印象が動機 でした。その時外国で働くには「常識」としてダンスが
出来ないといけないと思いました。  
 その後長崎に戻り上記スタジオの門を叩いた次第です。主宰者の青木信之先生との出会いがその後社交ダンスを生涯スポーツ として
続けるきっかけとなりました。 青木先生は後に日本ボールルームダンス協会の九州総局長や全日本クラスの審査員として 活躍されて
いる方で、本当にダンス技術に優れているだけでなく人柄も明るく親身になって対応してくださり、女房と一緒に 習い始めて から
今日に至るまで気兼ねしない家族の一員のような関係を続けております。長崎での貴重な先生であり、 友人です

2.社交ダンスを通じての長崎での想い出 

 社交ダンスは日本では歴史的に明治初期1880年台の鹿鳴館時代から社交の手段として欧米諸国と交わる必須科目でその後 長く
戦後復興期には庶民の趣味として広く流行っていましたが昨今は若者がヒップホップやシュートダンスなどの速いリズムで 自由に振付
ができるダンスに人気があり、社交ダンスを習う若い人も少しは増えていますが決まったステップで踊るダンスは 今や 高齢者の
老化防止の「趣味」として広まっている と感じます。私が始めた当初はまだ若い人も多く、勤務していた 長船機械営業部の新入社員
なども興味ある若者が いて 、その内二人の部下をスタジオのグループレッスンに連れて行ったら、 なんと二人ともその中の女性と
その後結婚して、 私が二人の結婚式の最初に「愛のキューピット」で挨拶することになったと いう事もありました。
  我々は毎週土曜日の夜に夫婦で青木先生に個人レッスンしてもらい、ご指導のお蔭で 色んな大会で常に 決勝に残ることができました。
優勝した時の喜び、皆さんからの応援の声援は今でも心に残っています。

           2010年 長崎県大会に出場した際に長崎新聞で掲載された写真

3.社交ダンスは生涯楽しめる効果的なスポーツ

社交ダンスはルンバやサンバなどの「ラテン」とワルツやタンゴなどの「スタンダード」の2種類がありますが、私と女房は
「スタンダード」をメインにペアー組んでいます。 社交ダンスは非常に健康に良いスポーツでその効用は、
 (1)姿勢が良くなる。踵から腰、背骨、首、頭まで真っ直ぐ立つことが基本。
 (2)音楽に合わせてRise&Fall(アップダウン)する上下動の激しい屈伸運動で体力 増強に非常に役立つ。
 (3)ステップを覚えて踊るので「ぼけ防止」に良い、
 4)後ろ向きに下がって移動するステップで踊ることがあるので脳の活性化になる。 特にパートナーの女性は殆ど後ろに
    下がるステップで踊る。
 5)人前に出るので自分を美しく見せながら度胸がついて自閉症など無くなる。
 など数多く,今は文科省で100歳まで出来る生涯スポーツの一つと位置付けられています

4.社交ダンスの盛衰とコロナ禍  
  1996年に大ヒットした映画「Shall We ダンス?」で日本でも社交ダンス人口は増え、2004年に同じストーリーが米国にて
映画「Shall We Dance?」でリチャードギアとジェニファー・ロペスの競演で世界的なヒットになり、そのころは長崎でも 社交ダンス
は流行っておりました
  更に2012年ロンドンオリンピックに社交ダンスが競技に入るか議論されていた頃が頂点だと思いますが、時代の流れで次第に ダンス
人口は減り、長崎での中心的スタジオだった長崎ダンスアカデミーも先生と生徒の高齢化が進み、残念ながら昨年12月 に37年続いた
スタジオを閉じることになりました。
 その「Farewell Party」をホテルニュー長崎で昨年12月1日行なうにあたり、東京に居る私たち夫婦にも出演と生徒代表の 挨拶の
依頼が来て、にわか仕込みで練習して二人でタンゴを踊らせてもらい生徒代表として挨拶させてもらいました。
 今となればコロナが来る前で、長崎生活での忘れられない「ラストダンス」の 想い出となりました。
 それに加え今年に入ってからのコロナ禍で、社交ダンスはコロナ感染の拡大と相まって,非常に厳しい状況に置かれています。東京で
は各駅前にある多くのスタジオは三密の典型で、営業を中止しているが多いと聞いております。
  音楽に合わせて、人と人との接触で気持ちを伝え同調したステップで踊る社交ダンスが今後コロナ時代にどう生きて行くのか
心配で、このまますたれて行くのは残念でならない気持ちで一杯です。
 「社交界の華」とはならないまでも人生100年時代で 「生涯スポーツ」の一つとして堂々と二人が踊り、拍手喝さいを受けることが
出来て、コロナが早く完全に収まり、思いっきり踊れる日が来ることを祈るばかりです。伊藤

   上 : 筆者夫婦で踊った長崎での「ラストダンス」(タンゴ)
   下 :出演者との集合写真 前列右から5番目が筆者女房、中央 右端が筆者、右から5番目が青木先生(主宰者)