皆様からのお便り(2.A)特別寄稿 長谷川信栄様

3月号で寄稿頂いた長谷川信栄様から後編として三菱重工最初の中国向け大型火力の上海火力発電所を通じて経験した中国人との交渉の
難しさと歴史的背景の考察について貴重且つ興味深いご意見頂きましたのでご一読ください。今回昔からの梱包解いて貴重な写真も発見して投稿頂きました。長機会関係者も多数登場して中国に最初に納入した宝山発電所の意義の大きさを実感しました。伊藤 

中国との関わりと上海宝山火力(その2)       元長船機械営業部 長谷川信栄

4.上海宝山火力の受注
  本社で3年勤務した後、ローテーションで名航資材部輸入部品課へ転勤となりました。1979年春、長船から大型の中国案件を受注したが、中国語のできる人がいないので来てほしいとの要請が有りました。
1978年11月当社は上海宝山火力350MW×2基を受注しました。これは上海宝山製鉄所(宝鋼)の自家発電所であり、日本が中国から受注した最大の電力案件であると共に当社の中国向け案件で最大のものでありました。担当事業所は長船であり、ボイラ、タービン本体とその補機を所掌、発電機、電機品は三菱電機、貯炭・運炭設備は広製、電気集塵機は神船がそれぞれ共販となました。また共販取りまとめ、営業の全体取りまとめも長船となりました。私は1979年4月宝山火力の営業担当として名航から長船原動機営業部輸出二課へ転勤となりました。 
宝山火力の契約書(GENE-CON)は日・中両国文であり、両文とも同等の効力を有すると記されていたが、契約書の解釈をめぐって日中間で食い違いや、論争が頻繁に起こりました。中国側は「契約交渉が中国語をベースに行われ(日本語への通訳つき)、作成された場所も中国につき、契約書の内容に食い違いが有った場合、中国語文を優先する」と強硬に主張し、私がチェックしたところ、契約書作成時日本側が準備した通訳の部分は翻訳がほぼ正確に且つ公平になされていたが、中国側が準備した通訳の部分は中国側に有利になるように翻訳されている部分が散見されました。
契約書の解釈をめぐる食い違いが起こる度に関係する設計や建設部門の技術者と共に中国に出張し、当社が不利にならないように粘り強く交渉しました。中国人の交渉力(弁舌の巧みさ、粘り強さ等)はしたたかであり、説得して合意に至るまで多難であり、且つ長い時間を要しました。(以下の写真は当時の役職で表示します)

1980年5月1日、宝山火力1号機ドラム揚げ
左から一工作部増田課長、原事本部玉井本部長代理、若杉現地所長、原動機営業部松浦部長、二工作部宮首係長、筆者

1980年10月3日、宝山火力試運転実習団のシミュレータ研修終了式(於長研)
左から相川部長、長研渡辺所長、劉宝陽技師長(団長)、黒木長船所長、長研筌口次長、森宝山火力P/M。最後列左端が筆者

1980年10月29日中国外交学会訪日団長船訪問(於占勝閣)
前列左から4番目:赫徳青団長、5番目:末永副社長、7番目黒木所長。
後列左から1番目:筆者、3番目:金山副所長、4番目:菊池部長、右端本社広報室岡本主査。

5.中国人の交渉力の歴史的背景についての私見
 ①中国では約2400年前の戦国時代から弁舌だけを武器に諸国を遊説することを「生業(なりわい)」する縦横家が活躍していた。
  中でも蘇秦の合従策 と張儀の連衡策が有名ですが彼らは群雄割拠する諸国が大国秦に如何に対抗するかについて説いて回りました。
  中国人の弁舌の巧みさやしたたかさはこのような長い歴史の中で醸成され鍛えられて来たものであり、今でも世界で群を抜いていると  考えます。

 ②日中両国はよく有無相通じるとか同文同種と言われており、両国とも漢字を使っていることは同じですが物事の考え方は異なり、特に  交渉事に関して中国人の思考は日本人と大きく異なります。更に清朝末期から新中国成立、旧ソ連との決別、文革等の苦難により思考  は変わっていった。1840年、英国との間に始まったアヘン戦争の敗北後、半植民地化した中国は日本をはじめとする列強諸国に約1世  紀の長きにわたり苦しめられた事、日中戦争を経てようやく共産党一党の新国家を樹立できた事、更に友好国であったソ連からの経済  技術援助の全面打切り(中国に滞在していたソ連技術者の総引き揚げ)等による不信感が日本との交渉事に大きく影響していたと思わ  れます。
 
 ③当社が宝山火力を受注したのは中国の文革が1976年に終息してから僅か2年しか経っておらず、侵略国である日本に対する根強い
  敵対感情及びソ連との取引で粗悪品や不良品を押しつけられた事による騙されたという底深い不信感が残っていた時であり、私自身
  中国側との交渉時、厳しい論争の中でこの事を実感しました。ソ連との取引で騙されたことは中国人から度々聞いていましたが、
  中国側の主交渉者の周りに同席した人々からひそひそと聞こえて来た中国語の言葉の端々に、今回は絶対に騙されないぞとの強い意志  を感じました。
  上記背景もあり、商務、技術交渉共当社の主張を理解してもらうまでに時間がかかり、台湾の案件で行うと2~3日ほどで終わるよう  な交渉が2~3週間も要しました。宝山火力の初代現地所長として派遣された長船火力建設部建設課の若杉氏は宝山に赴任する前、
  台湾の火力案件で現地に行っておられました。このため宝山に赴任する時、同じ中国語圏なので台湾と同様中国側とスムーズに交渉が  出来ると思われていました。しかしいざ現地へ赴任してみると当社の考えがなかなか受け入れてもらえず、論争が起こる度に困り果て  て営業担当である私に相談が有ありました。現地所長として本当に苦労されていたと思います。また私自身宝山に交渉に出張した際、  上司から「簡単な事案なのに解決までになぜそのように長い時間がかかるのか?」また本社原事本部のお偉方から「孔子、孟子の出た  国でそのような理不尽な事を言う人がいるとは信じられない」等と言われた事もありました。
  中国側は日本人が聞くと恥ずかしくて赤面するような事も平気で堂々と発言しました。

6.宝山火力の玉成
   このような厳しい状況のもと長船及び共販各社の営業、技術部門の総力を挙げての努力、中国側との粘り強い交渉により宝山火力   350MW×2基は立派に完成し、1982年11月に1号機、1983年11月に2号機の引き渡しが無事完了しました。
  宝山製鉄所に関する諸プロジェクトが華国鋒から鄧小平への政権交代による見直しで延期や取止めとなった中、宝山火力は上海の
  電力不足を解消するため、当初計画通り進められたことも幸運でした。宝山火力は 完成後、連続無事故運転(注:①)1034日を
  達成し中国電力界から大きな信頼を得ました。
    注①:宝山火力の連続無事故運転の定義(中国側の定義)要求負荷のマイナス5%以下での運転が30分以上続くとその時点で記録失格。
       要求負荷が昼夜共700MW(350MW×2)であれば665MW以下での運転が30分以上続くと連続無事故運転記録はストップする。

1983年11月23日、宝山火力2号機引渡し式(於宝山発電所)
中央:相川副所長祝辞、左側:筆者

  また宝山火力は引き渡し後6年間にわたり計10回の完善化会議が行われ、安定・安全運転、信頼性の向上に寄与しました。
  完善化会議は三菱側からの打合せ人員の派遣、資料の提出は無償とし、改造用の機器、部材、部品は有償としました。
  宝山火力が玉成し、その後の連続無事故運転記録(中国でトップ)、完善化会議等が中国電力業界の絶賛と高い評価を受け、これが
  その後の当社の大連、福州、珠海、三河、河津火力等の受注につながったものと考えます。

 幸運にも宝山火力の営業担当となれたことに感謝し、身に着けた中国語が仕事を通して生かされたことを嬉しく思っています。
 また中国案件や、北京、上海の2回の駐在を通して多くの中国の有人を得ることができた事は私の貴重な財産となっています。
 今後も来日中国人の通訳や漢詩の学習を続け、中国との関わりをライフワークとして行きたいと思います。

    “相知無遠近、万里尚為隣” (初唐、張九齢の詩の一部)
   (大意:互いに知り合えば遠近は無く、万里も離れていても隣に居るようである)

 2016年3月20日、相川相談役ご夫妻が長崎への原爆投下に関してNHKからの取応じられ国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館を訪問された時の写真です。筆者は同館の中国語での案内をしているので同席しました。左から智多正信館長(当時)、相川相談役、同夫人、相川夫人の女学生時代のご友人、一番右が筆者です

下は現在長崎で「晴耕雨読」を楽しむ筆者の写真です。筆者は釣りの名人で現役の時から有名でした。
これからもお元気でお過ごしください。貴重な投稿ありがとうございました。下記はメールでの現況です。
現在、来埼中国人のガイドをする他、晴耕雨読の毎日を送っています。釣りもしますが、当たりはずれが有ります。農園は愛着をもって手をかけた分、裏切らず、作物が元気に育ちます。雨読は漢詩の学習や朗詠を続けていますが、
奥が深く、“少年老い易く学成り難し”を実感しております。」(伊藤著)