コロンビアでの経験と戦友たち (その2) 伊藤一郎
3.建設中の出来事
幸いにも私が赴任した1985年10月以降、お客様のCORELCA(コレルカ)電力庁の支払いもある程度順調に進み、
取水口(INTAKE)配管の海中埋設工事業者(村角建設)や三菱電機(発電機)、神船(EP装置)など総勢40名以上
の日本人が宿舎に宿泊している時期もありました。とにかく金払いの悪いお客様コレルカ電力庁で「出来高払い」の入金を
三菱商事の営業(特に佐藤友厚氏)がコレルカ本社の財務部長Maria Teresa de Bojanini(コロンビア美人でしたが兎に角
憎たらしいおばさんでした)の部屋の前に朝から晩まで数日間居続け粘り強い督促のお蔭でスムーズに実現したのが大き
かったです。
サイト内で良かったのはウオクニから日本人コック一名(大石さん)が赴任してくれて3食とも美味しい日本食があったことで
した。本当に助かりました。
その中で何度か大きな事件がありましたので主なものだけここに書きます。
(1)電気ケーブル没収の危機を直談判で突破
1986年9月に突然サンタマルタ港税関から手紙が来て、「三菱が港に保管している日本からの電気ケーブル165本は
違法物で全て9月xx日に没収するのでトラック派遣する」との内容でした。その数か月前から輸入手続きができず工程を
守るためには一番クリティカルなものでした。何度交渉しても埒が明かず難航していた時突然届いた手紙でした。
これには税関吏F.G氏が裏で相当高額の金を要求しておりました。勿論払う筋合いなく、徹底抗戦状態での通知でした。
岡村建設所長にも相談して、誠意を持って説明するため税関長に直談判しかないと思い、計装電気指導員の日高善法氏と
一緒にサンタマルタの税関長自宅を調べて夜に直談判に出向きました。(所謂「夜討ち」です)
その際いつも泊まるサンタマルタ・RodaderoのホテルLa Sierraは15階建でしたが、税関長との交渉に失敗したら自分で
飛び降りるかもしれないと思い3階の玄関ルーフの上の部屋を頼んだのを覚えております。それほど追い詰められていまし
た。日高さんも必死に技術的な説明してくれ、私からも「我々は家族も置いて遠いコロンビアに来てコロンビアの民衆に電気
を送るために働いているのだ。これは違法なものではなく、これがないと発電所は完成せず我々の今までの努力も報われない
しコロンビアの民衆のためにもならない。」と必死に涙ながらに訴えました。それを聞いていた税関長は「手続きに一部不備
が有ったが内容は分かった。担当者と話して後日回答する。」と理解してくれました。その数日後に輸入を認める手紙が税関
長の名前できました。その手紙をもらい日高指導員はじめ関係者と乾杯したのを覚えております。一番の感激でした。
(2)発電機が揚がらない。そして揚がった夜に据付指導員に悲劇が。
発電所機器で一番重量物の三菱電機製発電機(神電製作)を愈々二階タービンフロアーに巨大なウインチ使って揚げると
いうGeneratorLiftingの作業はどのプラントでも最大の山場工事ですがその際に日本から送ってきていた滑車の荷重能力
が小さくて揚げられないことが判明。日本側の手配ミスでした。
日本から取り寄せるには時間がかかりすぎ、すでに工程は1か月以上遅れ。悩んだ末当時岡村所長はベネズエラに関係ある
下枝指導員をベネズエラに派遣し代替品を探すことにしました。運よく仕様に合う巨大な滑車が見つかりコロンビア側の通関
も上手く通過して調達に成功しました。そしてようやく最難関の工事を1986年9月13日に成功しました。
処が発電機が揚がってみんなで乾杯した夜、発電機据付責任者として三菱電機から派遣されていたT氏がその架台から
飛び降り自殺され翌朝現場で冷たくなって発見されました。彼は新婚さんで結婚早々単身赴任されてました。ビールがとても
好きな明るい人でサイトでは人気者で責任感の強い方でした。
本当に悲しい事故で、その夜、筆者が離日の際父親から送別にもらった薬師寺「般若心経」扇子を朗読してキャンプの
畳部屋で追悼の通夜いたしました。熱帯地帯なので遺体は現地で内臓処理されましたが、ご遺族の希望で米国経由輸送されました。
その後現場に来られた奥様が架台の下で献花された時の涙は何時までも忘れられません。
(3)相次ぐパートナー会社幹部の誘拐がありましたが日本人は幸い無事故でした。
サイトでの建設期間中にサブコンやパートナーの社長他幹部の身代金目当ての誘拐が相次ぎました。コロンビアで唯一のボイラー
会社で三菱グループで出資していたDistral(ディストラル)社の社長の息子が誘拐されて耳を切られて送ってきた後、その開放の
ため多額の身代金を払ったとか、据付工事のサブコンSepulveda Losano(セプルベーダロサーノ)のロベルト社長がボコタ
事務所に白昼侵入してきた誘拐グループに麻酔注射され誘拐され長期間にわたって拉致され、注射等で身体を痛めつけられて、
数週間行方不明になった後身代金を払って開放されたが米国の病院で治療して何とか一命をとりとめました。
サブコンで電気工事会社の社長が誘拐され長期にわたったのでノイローゼになったとか、さらに三菱商事CPJ事務所村井社長に
誘拐予告の電話が入り、数か月付け回され本人はホテルを転々として家族も自宅から出れなかったとか、誘拐はビジネスとして
本当に身の回りに頻繁に起こっておりました。
また月二回現地ワーカーの給料日がありましたが、その給料支給日夕方にあるサブコンのワーカーを乗せたバスがサイトから
出たところで重装備した強盗が待ち伏せてワーカーの給料全て略奪するという事件も起こりました。
下名も月二回の現地従業員への給料と日本人指導員から希望ある現地通貨ペソでの日当支払いのため、サンタマルタの銀行に
行き、当時200万円位相当のペソ紙幣を下ろして帰るのは誰にも任せることが出来ない仕事でした。三菱の名前の入った社有車の
バンは市内では有名で銀行に出入りする際には銀行のガードマン(つるんでいるかも知れないとは不安でしたが)に車まで拳銃
付きでガードしてもらい急いで車に乗るという危険なことを毎回経験しました。
然しながら本当にラッキーなことに日本人への誘拐や強盗事件は無くて最後まで無事故で帰国できアドミとして助かりました。
1987年2月20日長船故浦上純一副所長と高橋伯火プ建部次長がサイト視察された時の集合写真です。
中央背広姿が故浦上副所長、左隣が高橋次長、右隣が岡村所長、その右が筆者、その右が日高善法指導員
色々なことがありましたが、想定していたより早く、筆者が赴任後2年2か月で、最終引き渡しを終えることが出来ました。
引き渡しのパーティーをコレルカ電力やサブコンと一緒にサイト事務所で行った時の皆の喜びようは凄まじく、一部
「暴徒化」するような事態になりました。ある指導員は興奮して拳で天井をぶち破りそれが原因で破傷風で入院する騒ぎに
までなりました。
それまでの苦労の大きさがそういう事態になったと思いますが、それこそ何も事故がなくて良かったです。
1987年12月にキャンプも閉鎖し、保証技師の日高善法指導員と秘書ミリアンを残して全員帰国しました。
(その後この二人は一年後に結婚され長崎浦上天主堂で挙式されました。仲人は岡村元建設所長でした。お子さんにも
恵まれ今も長崎で幸せに過ごされています。当時としては珍しい国際結構でした。)
取水口工事現場にて 中央が岡村弘所長、その右は筆者。左端が斎藤正義土建責任者、右端が長島土建指導員、後列左が佐伯土建指導員
(上:グアヒラ2号完成間近の集合写真 前列右から二番目が岡村所長、二列左から三番目が筆者。その二人右が日高指導員その右が斎藤正義土建責任者)
(下:引き渡し直前1987年10月のグアヒラ2号(左)とセレホン1号両機が稼働中の写真)
4.戦友たちとのコロンビア会
受注した5プロジェクトの建設が終わったのは最初のパイパ2号の契約(1972年)から15年後の1987年末のことでした。
その後新規案件は殆ど出て来なく、またガス化の動きの中三菱重工の実績は既設プラントのアフターサービスだけになって
おります。しかし苦しい時期同じ釜の飯を食べ苦労を共にした仲間(戦友)とは「コロンビア会」という形で40年近い年月が
経過して皆な高齢化しても嘗ての気持ちを持ち続けて機会あるごとに会っております。そのメンバーにはかつての三菱商事・
CPJから7-8名が必ず参加してくれています。さらに長機会からも内田捷治様、福居明夫様(パイパ3号アドミ)、
故石井英一様(タサヘロ1号アドミ)、古久根和久様(長崎営業)ほかの方々も参加して頂いております。
1) 長崎でのコロンビア会 2011年3月4日 @長崎江山楼
あの3.11東日本大震災の一週間前に長崎中華街(江山楼)にて開催したコロンビア会は総勢50名を超える大集会に
なりました。東京からも三菱商事6名含む10名が駆けつけてくれ、4時間以上に亘り各自の想い出を語り大変盛り上がった
集会になりました。ある人は20分以上も過去の経験を話し、全員が挨拶終わるまで3時間以上かかりました。
何時までも苦しいことを笑顔で語れる素晴らしい時間となり当時の長船サービス部梅木課長や関(加津子)主任なども
サポートしてくれて大盛況でした。
(下の写真はネガがなくて当時配布された資料からの写真で写りが不鮮明ですが、会の雰囲気を感じてもらうため添付します)
(中央でⅤサインされているのが内田捷治様です。前列一番左端が関加津子様、 その左の2人が日高ご夫妻。内田様が抱っこしているのが日高夫妻のお子様です。前列右から二番目が司会の梅木課長、3段目左から二番目が筆者)
2) 関東地区ミニコロンビア会
関東地区でも毎年集まっています。大体14-15名ですが三菱商事と三菱重工でこの会を毎年楽しみにしているメンバーが
集まると熱く当時の事を語り合います。話題は30-40年前の想い出話ですが気持ちはあの時に戻って発電所に掛けた熱き
情熱と重なる苦労話を明るく語る戦友会に翌年も元気で会おうと毎年再会を誓って別れます。(今年も4月に予定していま
したが新型ウイルスの影響で秋以降に延期しました。)
2019年3月27日の関東地区コロンビア会 @八重洲側桜通りレストラン前
(長機会メンバー:後列右から3人目がマフィアに銃撃されそうになった成枝吉夫様【長崎から参加】、その左4人目が内田捷治様、
5人目三菱商事佐藤様、7人目古久根和久様、その左9人目が三菱商事稲垣様、左端が福居明夫様、前列左端が三菱商事坂上様、
2人目 筆者 右端澁谷修様。 三菱商事8名、重工7名 合計15名)
最近コロンビアを訪問したメンバーはあの時の戦争状態から現在は非常に平和なボコタ市の状況を話してくれます。
「今そこにある危機」の国から全世界から観光ツアーが訪れる「麗しの黄金の国」になったのも私たちが建設した発電所が
少しでも貢献していると思うと感慨無量です。
何時までもコロンビアに貢献する発電所であること期待しております。 了 伊藤一郎
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