皆様からのお便り 「画家 山本芳翠と三菱岩崎家」 牧浦 秀治様

ユネスコ世界遺産占勝閣にある画家 山本芳翠氏の名画「十二支」十点の謎について調べた非常に興味深い記事を頂きました。(伊藤)

画家 山本芳翠と三菱岩崎家                      牧浦秀治

 長崎造船所構内の「占勝閣」は二代目所長 荘田平五郎(所長:1897年~1906年)の所長宅として1904年(明治37)7月に落成した。
荘田は東京本店での業務のため,1901年(明治34)5月家族とともに東京に戻っていたので占勝閣には一度も住んでいない。
 完成半年後の明治38年1月に修理のため,ドック入りした軍艦「千代田」の艦長、東伏見宮依仁親王殿下がお泊りになり、2階のベランダ
から長崎港をご覧になり「風光景勝を占める」との意味から「占勝閣」と命名された。宮様がお泊りになった所を社宅として使用するのは
恐れ多いと三菱の迎賓館として使用し,今日に至っている。占勝閣に画家・山本芳翠の「十二支」と題する絵画10点がある。

1.画家 山本芳翠
 山本芳翠(1850-1906)を画家として,その作品を思い浮かべることのできる人は少ない。高橋由一(1824-1894)は幕末に
洋画の先駆者として活躍する。《鮭》は彼の代表作で重要文化財に指定されている。黒田清輝(1866-1924)はフランスに留学し、
1896年(明治29)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)に西洋画科が設置されると,指導者として招かれ西洋画を広める。
 彼の代表作《湖畔》も重要文化財に指定されている。高橋由一と黒田清輝の間で忘れ去られているのが山本芳翠だ。

 山本芳翠は1876年(明治9)に政府が設立した工部美術学校に学び、1878年(明治11)から10年間フランスに留学、日本人で最初の
パリ画学生である。帰国した時は、急激な欧米化の反動が美術界でもあり西洋画を教える工部美術学校は廃止され、美術を教えるために
設立された東京美術学校では西洋画は教えられていなかった。芳翠を含む洋画家たちは洋画を盛り立てようと,1889年(明治22)に
設立したのが明治美術会である。

 黒田清輝は1884年(明治17)フランスに留学する。黒田の留学の目的は法律を学ぶためだ。パリで芳翠に出会う。黒田が趣味で
描いた絵を見た芳翠は彼の才能を見抜き、法律家よりも日本の為に画家にと彼の養父に再三手紙をだして彼が画家になる許しを得た
のである。黒田は1887年(明治20)に法律大学を中途退学し絵学に専念する。1893年(明治26),黒田清輝が帰国すると
「黒田は本物だ。将来日本洋画の為に役立つ男だ。太陽が出ればローソクは引っ込むよ」と日本の洋画の表舞台から去ってしまった。
洋画界の巨匠として明治初期は高橋由一、明治中期は山本芳翠、明治後期は黒田清輝と言えるのではないか。

2.《十二支》と三菱岩崎家
 山本芳翠の《十二支》は、明治美術会が主催した1892年(明治25)の第4回展覧会に岩崎彌之助の名前で出品されている。
この作品は明治天皇、皇后両陛下天覧のために宮中に持ち運ばれたこともあり、同展髄一の呼び物として評判になった。
芳翠と二代目社長彌之助がどのように結びついたのか。これらの絵画が占勝閣に飾られることから荘田平五郎が関係していると思う。
芳翠らの明治美術会設立の翌年に、荘田は賛助会員として入会している。岡倉天心を中心とした日本画が降盛を極めていた中で洋画家
である芳翠には絵の注文があまりなかった。《十二支》が描き始められた1891年(明治24)には荘田を介して二代目社長彌之助の
支援があったと思われる。

《十二支》は最初から干支を念頭に描いたものではない。彌之助の長男で4代目社長・小彌太が明治12年「卯年」生まれなので“卯の年
の明治24年”に芳翠に兎の絵を注文した。彌之助は完成した絵を気に入り,次に美人画を注文した。芳翠は女性の背景に龍を描く。
《卯》と《辰》がそろった。十二支の残りを描いたら面白いと彌之助に提案したら、彌之助は十二支すべてを自分が買い取るからと
約束して描かせた。それが現在占勝閣にある《十二支》である。

3.山本芳翠《十二支》がなぜ占勝閣に
《十二支》で現存するのは占勝閣にある10点だ。《卯》と《辰》は依頼の経緯から東京の岩崎家(彌之助の深川邸と思われる)に
飾られていた。関東大震災で焼失してしまう。芳翠の弟子・北蓮蔵が記憶に基づいて描いたスケッチが残っている。《申》《酉》《戌》
《亥》の4点は昭和3年まで荘田家に保管されていた。この4点を含む10点がなぜ占勝閣に。

 占勝閣の設計者は曽彌達蔵。三菱関係の建物を設計したジョサイア・コンドルから学びコンドルの勧めで三菱に入っている。
コンドルは山本芳翠らの明治美術会に設立直後に入会し、評議員になり会の発展に尽力している。芳翠と親しかった。
 彼は岩崎家の邸宅を設計すると同時に飾るべき絵画もアドバイスしていた。三菱本社筆頭管事の社宅内装を飾るのは
「天覧の栄誉を受けた山本芳翠の《十二支》だ」と荘田にアドバイスがあったと考えることもできるのではないだろうか。
これは推定だが、占勝閣完成直後に6点が飾られ、昭和3年に荘田家から戻ってきた4点が移された。

《十二支》の中で下記の『丑「牽牛星」』が私は好きだ。この絵は占勝閣の応接室に飾られている。雲に座る美しい織姫の
背景、彦星が牛を引いてやってくる姿が小さくぼんやりと描かれている。絵の裏には平安時代の三十六歌仙・凡河内射恒
(こうちのみつね)の和歌「としことにあふとはすれと棚はたのねるよの数そすくなかりける」(古今集巻四)が芳翠直筆で
書かれている。2021年は丑年である。


【結び;筆者より投稿して頂いたメールに寄稿された動機と背景の説明頂きましたのでご参考まで添付致します。伊藤】

「山本芳翠の絵画がなぜ三菱長船の占勝閣にあるのか調べました。《十二支》は彼の最高作と言われています。この絵を
フランスから帰国後に描いています。明治天皇が鑑賞するために宮中に持ち込まれています。それほど素晴らしい絵画がなぜ
占勝閣にそれが最初の疑問でした。
山本芳翠の滞仏時の絵画は18点しかないと言われています。その内の一つが占勝閣にある《天女》です。
帰国前に自分の作品を明治政府がフランスに発注した巡洋艦「畝傍」(3600㌧)に積み込みます。「畝傍」は
1886年(明治19)10月18日に日本に向けて出航し、最終寄港地シンガポールを12月3日離れて以後の足取りは今日まで
不明です。彼の滞欧時代の多くの作品は「畝傍」と共に沈んでしまいました。
「畝傍」には保険がかけられていて、その保険で,明治政府は巡洋艦「千代田」(2400㌧)を英国に発注します。この千代田の
艦長が占勝閣に最初にお泊りになった東伏宮依仁親王です。殿下が泊まられた占勝閣は山本芳翠の絵画で飾られていた。
2階への階段の上り口の壁に《天女》。これは山本芳翠が渡仏した最初の年に描いたもので、渡仏でお世話になった岸田吟香
(新聞記者、岸田劉生の父)に贈られています。「畝傍」とともに消えずに占勝閣に飾られている。なぜ《天女》が占勝閣に。
これは次の課題です。
人と物は繋がっている。芳翠と三菱岩崎家の関係を調べていく中でそう思いました。」