玄後様が初めて海外に行かれた時の想い出を纏めて頂きました。多分5歳位の記憶かと思いますが、その記憶力と写真等
の整理力に驚きです。ご家族への「記録資産」として投稿頂きましたのでご一読ください。【伊藤】
65年ほど前の記憶 玄後 義(げんご ただし)
正に光陰矢の如し、70歳など永遠の先と思っていたらなってしまった。70年前、今享受する文明の利器は無かったが、その代わりの
何かがあったような気がする。
若い世代に記憶を残すのも大切かと感じ始めた。Homo Deusが語る未来のように、想像もしなかった格差が社会を覆い、爺さんは
ただ無事を祈りながら孫たちを見守るのだろうか。生まれた当時、世界人口25億人、GDP約4兆ドル(2011Base)、今は75億人、
GDP約80兆ドル人口以上にGDPは増えたが、人類は豊かなのか。
当時は旅は蒸気機関車、トンネルに入ると窓を閉めても煙たかった。当時弁当と一緒に売っていたお茶は容器が陶器で香りが良かった。
文明が進むとプラスチック臭で不味くなった。その後、ペットボトルで改善されたが。時代はラジオドラマ、少年ケニア、ゴジラ、
『魔の衛星カリスト』等の本だった。世界はまだ冒険する、夢の宝が待っていた。
1956年10月頃、初めて海外への移住の旅に出かけた。
1956年人生最初に搭乗したAir Franceの飛行機は『空の貴婦人』Lockheed Super Constellation
(経路:Tokyo Haneda→Manila→Saigon→Calcutta→Karachi→Beirut→Nice→Duesseldorf→
Frankfurt【Train】)
当時はプロペラ機が主流。航続距離と共産圏の為、欧州への航路は南回りだった。Air Franceの飛行機は『空の貴婦人』
Lockheed Super Constellation, 18気筒55リッタ4発プロペラ、航続距離8,000km程度だった。対流圏飛行、エアポケット
と言う下降流に何回も落ち、ジェットコースターのようなマイナスGが不快であった。夜間は機内は真っ暗、星とエンジン排気
がきれいだった。
昼頃に羽田を発ち、夜中にマニラ着、給油して、朝太陽が昇るころにサイゴンに着陸。ベランダでの朝食の時、ゲッコー
(ヤモリ)が天井で鳴いていた。戦争中南方に住んでいた親は鳴き声を懐かしがった。カルカッタ、カラチ、中東の砂漠を飛んだ。
飛行高度が低く、ブルーブラックインクの様な死海が印象的に見えたころベイルートに着陸。その後、ニース、デュッセルドルフ
と飛んだ。だが目的地のフランクフルトには着かない。当時は有視界飛行、秋の霧でフランクフルト空港は閉鎖されていた。
デュッセルドルフから夜中に列車でフランクフルトに移動、到着したら宿舎が見つからない。初めてのドイツの夜はタクシー
運転手さんの家にロハ民泊だった。日本に比べ家は立派、客用寝室のベッドはフカフカ、真っ白な糊のきいた寝具が良い匂いだった。朝食のコーヒー、パンが日本とは違った。予約が無いとホテルは泊めない時代だったのだろう。今では考えられない経験だ。
ドイツの街は石造り、木造の日本と違い1956年頃でも戦後の爪痕が深く残っていた。
中央駅は爆撃跡が残り、オペラ座は焼け落ちたまま(下写真右)。恐らくは戦前の栄光の姿に戻す予算が無かったか。市内には
廃墟が多く、半分崩れたアパートから夜、光が漏れていた。幼稚園の同級生の家だったと思う。
1956年当時のフランクフルト 戦後の爆撃後が残るフランクフルト中央駅(左)とオペラ座(右)
3年間住んだ住宅も戦災で焼け、残った外壁を使って再建されたものだった。裏は瓦礫の山(左写真右側のような
状況)、良く登って遊んだ。周辺に3,4か所の廃墟があり、真ん前の教会の鐘楼も尖塔がなかった。廃墟で遊ぶと骨を
発見、恐らくは動物の骨だったろうがちょっと怖かった。フランクフルトには日本人は我々3人家族の他2人の留学生、
1人のピアニストが住んでいた。ピアニストは戦後日本では有名だった梶原完であった。親が平気で小生のレッスンを
任せたことがあったが、その運指の正確さについていけず泣いた。才能が無いことが良く分かった。
同じフランクフルトに住んでいた有名なピアニスト梶原完氏。ピアノを習う。
当時、子供達は街中に張り巡らされた敷地境界の壁上を走り回ったが不法侵入を誰も咎めない。革靴で2m程の高さ
を走り回ったと思うと今更危なかったと思うが、3年の間で落ちたのは1回だけ、落ちたら石敷きの中庭と思ったら端っ
こは土だった。壁の路は近道で小学生には面白くて仕方がなかった。
1950年代は群雄割拠のドイツ自動車業界で、面白い格好の自動車が走っていた。
オートバイよりは快適だが自動車じゃないのが全盛時代(上右からBMW Isetta、Messerschmidtキャビンスクータ、Goggo Mobil)で、経済が上向き始めた西側のドイツ国民を満足させた。(当時はまだ西ドイツでなく、ベルリンの壁もなかった。)
NSU、DKW、Horch等々戦前からの会社が東西で活動。オペルも独立のファミリービジネス、郊外に私立動物園があった。
親が買った車は日本では無名のIsabella Borgward、戦前から1961年まで存在した自動車メーカ、良い車を安く売り過ぎた
と言われた。
最初に親が買ったドイツ車 ”Isabella Borgward”
この車でロンドン、パリ、バイロイトと旅をした。パリまでは6時間程度、アウトバーンの威力を感じた。ベルギーに入った
途端、悪路で速度は落ちた。途中Verdunを見た。狭い田舎道の両側に鉄兜が延々と並ぶ慰霊碑、人のいない夕方の静寂の中で
強烈な印象だった。
当時、スエズ動乱、ハンガリー動乱、アルジェリア独立戦争と欧州周辺は騒がしかった。夜に軍用機が飛び、駐留米軍は
大規模演習・移動を繰り返した。アウトバーンで延々と続く米軍車列、トラックを追い越すと前は弾薬車。東京とは違い、
陸続きの最前線で米軍の存在感は強烈だった。小学校近くで自動車爆弾が爆発し、アルジェリアに武器を売っていた死の商人が
殺されたことも。授業中に激しい爆発音が響いた。
このように復興期ではあったが、未来から舞い降りたような超高級車も存在した。Mercedes SL300 Gullwing。
子供ながらに降りてきた飛び切りのブロンド美人に見入った。
Mercedes SL300 Gullwing
意外と記憶は蘇ってくる。美化され、辛い部分は霧に覆われる。結核の自然陽転、猩紅熱で隔離、アレルギー、と思い出すが、
良く考えないと出てこない。記憶とはどのように脳の中にあるのか不思議に思いながら、記憶を絞って来たが、個人の記憶は
結局はその個人にしか価値は無いもの、この程度にしよう。
では、今の世界がまた正常化して、以前のように楽しめるようになりますように祈りながら失礼します。2021.07.31玄後著
玄後 義様 略歴
1975年 三菱重工業入社(原動機技術センターボイラ設計一課)
1991年 原動機事業本部 ボイラー技術部課長
2005年 同 新事業部長
2009年 同 リチウム電池事業推進室長
2014年 MHPS サービス本部 ME
2021年3月 退職
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