皆様からのお便り 「想い出のフライト]  松永 巌 様

今まで1000回近くのフライト経験から「想い出のフライト」2件をご紹介頂きました。それにしても詳細なデータ管理には驚くばかりです。【伊藤】

   想い出のフライト   松永 巌

 今まで1000回近く飛行機に乗ったが、全てのフライト・ナンバー(便名)と機種(判る範囲で)をメモして来た。
私は記憶も記録も写生の一貫であると考え、克明にメモする事を大切にしている。

 説明になるが、航空機の便名もそれなりに意味を持つことを知った。即ち初めの2,3個のアルファベットは航空会社名の
略称。数字の奇数は西または南行、偶数は東または北行(多少の例外はある)で、数字の少ない程長距離線を表す。
 最初に乗ったのは1955年(昭和30年)、台湾に出張した時で。台北に行くには台湾とタイのフライトしかなく、タイ航空の
TAC001便にした。
 欧州へ最初に行ったのは1960年(昭和35年)4月スイス航空のSR503便で初めてアメリカに行ったのは
1966年(昭和41年)、日本航空では未だニューヨークへの直行便が無く、俗に「米軍輸送機」と言われたノースウエスト航空
NW002便を利用した。夕刻羽田を出発し、翌日の早朝シアトルに寄ってニューヨークに飛ぶもので、何回か利用した。
その中で、1968年(昭和43年)5月、この便に乗った時、私が左の窓側に座って居たら、上品な御夫人が右側の席に御着き
になった。
 間を置かず御夫人から「私は御手洗と言う変わった名前の者ですが、息子がキャノンのニューヨーク駐在をして居りまして、
そこへ行く所です」と自己紹介をなさった。その時はキャノンの御手洗さんと知る由も無かったが、後に社長、会長にお成り
になり、経団連の会長と有名に成られ、あの時の御夫人が御母堂と判り、機中で色々お話したことが懐かしく思われて、
NW002便も忘れる事の出来ないフライトである。

 次にJAL001便の想い出であるが、JAL001便は太平洋だけでなく、欧州にもある事を知った事である。
(現在どうなっているか不明)
 1969年(昭和44年)2月27日私はイタリー、ドイツ、フランスと仕事をして、パリからニューヨークに飛んだ。
これが日本航空JAL001便であった。ジェットエンジン付きのDC8で、2月と言う時季的なものも有ってか乗客は僅か数名、
乗務員の数より少ないと言った状況。時間あって客室乗務員も暇そうであったので、パーサーを呼んでコックピットの中を
見学したいと申し出た。現在では考えられないことであるが、当時はハイジャック等は考えられなかったが、やはり容易には
開放しない所ではあった。
 パーサーは機長と相談するとその場を去ったが、直ぐ帰ってきてOKと言った。長い間希望していた事が叶えられ大変
嬉しかった。パーサーがコックピットのドアをノックすると中からドアが開いて入った。左側前方の操縦士の機長が座席から
手を伸ばして握手をしてくれた。右側の座席の副操縦士、航空士、航空機関士を次々紹介してくれた。
 正、副操縦士は共にアメリカ人、他は日本人であった。機は既にオート・クルージング(自動航行)に入っており、副操縦士
のごときは靴を抜いて操縦桿の上に脚を伸ばしている有様であった。短距離やコースを熟知している場合は航行士や機関士を
省略する事もあると言っていた。
 現在ではパイロット不足のためAI等の最新技術を駆使して省力化が検討されている。
スチュワーデスの話によると、この機体は皇族等のVIPも利用されるもので、特別の更衣室があると言って、その内部まで
見せてくれた。

 このフライトがニューヨークに着いて翌日にトラベラーズチェックの盗難に遭ったりして忘れられないJAL001便になった。