皆様からのお便り 「フェートン号事件」に思うこと 藤川 卓爾様


     「フェートン号事件」に思うこと      藤川 卓爾

   平成17(2005)年11月3日に長崎歴史文化博物館が開館した。長崎歴史文化博物館には長崎奉行所が復元された。
  私はフェートン号事件の名前は知っていたが、事件の内容は長崎歴史文化博物館を見学して初めて知った。
  一般に江戸時代は封建社会で現在よりも未開の社会と思われていることが多いが、トップの責任の取り方という点では
  果してそうであったのであろうか。

(長崎奉行所立山役所を復元、写真は平成17年11月3日の開館式風景)

1.「フェートン号事件」の経緯

 長崎歴史文化博物館で知ったことならびにWikipedia記載事項および志岐隆重氏の「長崎出島四大事件-長崎奉行
との緊迫の対決」、長崎新聞社、(2011-12)から抜粋すると、「フェートン号事件」の経緯は次のとおりである。

 「フェートン号事件」は約200年前に鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件である。
当時オランダはフランスのナポレオンの勢力下に入り、海外のオランダ領植民地はイギリスの勢力下に入っており、
世界中でオランダ国旗が掲げられていたのは長崎の出島だけであった。

 文化5年(1808年)8月15日、イギリス海軍の軍艦フェートン号は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港
した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員2名を小舟で派遣したところ、商館員2名が拉致され
船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船拿捕のため武装ボートで
長崎港内の捜索を行った。


 長崎奉行の松平康英は、湾内警備を担当する鍋島藩、福岡藩にイギリス側の襲撃に備えること、
またフェートン号を抑留、または焼き討ちする準備を命じたが、長崎警衛当番の鍋島藩が太平に慣れて
経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどしか在番していない
ことが判明する。17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した時にはフェートン号は
碇を上げ長崎港外に去った。

 結果だけを見れば日本側に人的、物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は
平穏に解決した。しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった松平康英は、
国威を辱めたとして自ら切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。

 ェートン号事件ののち、外国船の入国手続きが強化され、幕府は1825年に異国船打払令を発令した。
 この屈辱を味わった鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力した。
 長崎市鍛冶屋町の大音寺には松平図書守(ずしょのかみ)康英の墓がある。

                    崎鍛冶屋町大音寺にある松平図書守康英の墓

2.「フェートン号事件」の教訓と現在の日本

  松平図書守康英が取った「切腹」と言う決断は現在の日本文化と比較して教訓的だと感じた。

(1)松平図書守の遺言
「フェートン号事件-長崎を震撼させた2日間-」から、松平図書守康英の遺言を抜粋すると

 「一、 旗合時オランダ人二名が奪われ、そのまま検使が帰って来た事、これは甚だ柔弱な処理であり日本の恥である。
  臆病な事であるが、これはその主人(図書頭自身)の常の教育が不十分であった。幕府の権威を失い申し訳なく
  恐縮している事が壱つ

  二、 八月十五日の夜異国人が艀で港内に乗り入れたのは専ら陸の防備だけに気を取られ、海からこの様に来るとは
  気づかず、本来は肥前の沖警備所で防止すべきだが、これを特に指図せず放置していた事は油断の至りで有る事が
  壱つ

  三、 十五日は晴夜であり異国の艀三艘は肥前の沖両警備所の前を通過するのを番兵は見ている筈である。
  しかし駐在人数が少なく阻止する事が出来ないと見過ごしている。今年はオランダ船も来ないと考え内々に佐賀へ
  警備兵を引揚げて、両警備所で四五拾人しか居ないので艀の侵入を防げず、わざと見逃していた事は明らかである。
  警備所の人数は定められおり、これは肥前の違反である。しかし奉行は内々で監視人を付け、違反があれば注意
  すべきである。警備所が空だった事は肥前の違反というものの奉行から注意もせず、重要な警備所を突破され
  不注意の至りである事がひとつ

 「自身の恥はともかくこの場に至っては日本の恥でありこれを外国に晒した事は申し訳なく切腹してお詫びします」
    と云う趣旨との事

 

 (2)現在の日本への教訓

   松平図書守は、直接の不手際は部下や警備担当藩の責任であるがそれを見逃したトップの責任を潔く認めて
 切腹している。
   現在の民主主義の世の中では責任といっても命まで差し出せとは言われない。それでも自ら責任を取ろうとしない
 トップがよく見られる。
  近代化以前の時代とされている江戸時代に学ぶべきことが多くあると思う。

   ちなみに、長崎歴史文化博物館初代館長の大堀 哲氏は会津出身で、平成25(2013)年に「ならぬことはならぬ」を
 出版された。内容は、会津の教えから日本の教育を考え、会津藩伝統の教育指針や新島八重の生き方、山本家の
 家庭教育などにふれながら、現代の家庭、学校、地域社会などの教育のあり方を考えるものである。
   著者の意向でこの本の印税はすべて東日本大震災の復旧・復興のために寄付された。同氏は平成29(2017)年に
 逝去された。