皆様からのお便り 「父の若い頃を辿る」 藤川 卓爾様
「父の若い頃を辿る」 藤川 卓爾
28年間の長船勤務を終えて本社タービン技術部に転任し、横浜に住むようになった平成9(1997)年の秋に、私は父のかつて
の勤務地であった富山県神通川の畔の笹津変電所を訪問した。
父の履歴書によれば、父は昭和4(1929)年10月に日本電力に入社している。その時の勤務地は東京変電所で、昭和7(1932)年
に笹津変電所拡張工事に従事し、昭和12(1937)年に本社会計課に移っている。会社は昭和16(1941)年に日本発送電になり、
昭和25(1950)年に関西電力になった。
笹津変電所には我々夫婦の媒酌人の小杉さん夫妻と共に訪れた。笹津変電所勤務時の父はまだ独身で、黒部に住んでおられた
知り合いの後藤さんのお宅を時々訪問していたようである。後藤さんのお嬢さんであった小杉夫人は当時まだ幼かった
ようであるが、父が神通川で獲れたアユを持って来ていたことをよく覚えておられた。
父は本社に転任後、母と結婚して数年後に私が生まれた。戦後昭和25(1950)年に大阪の郊外の箕面に関西電力の
社宅が出来て、それまで単身で寮住まいだった父は我々家族を呼び寄せた。しばらくたって同じ社宅に小杉さん一家
が転居して来て父は十数年ぶりに小杉夫人と再会した。
そのようなことがあって父は亡くなる前に小杉さんに息子の縁談をお願いしたようである。
日本電力は日本アルプスの未開発の水系を集中して開発し高圧送電を行うことで価格競争力を高め、特に大都市で
既存の電力会社に対し競争を挑む電力戦の仕掛け役となった。
「電力王」、「電力の鬼」として有名な東邦電力の松永安左エ門氏と激しいシェア争いを演じた。
水木楊氏の「爽やかなる熱情」には電力戦のことが書かれている。(写真下の左)
松永安左エ門氏がライバルとして一番手ごわいと思ったのが日本電力社長の池尾芳蔵氏
で、松永氏は池尾氏との仲介を阪急電鉄の小林一三氏に頼んだようだ。
我が家に昭和8(1933)年発行の「日本電力株式會社十年史」という本が残っている。(写真上の中央)
もう一冊、紀元二千六百二年(昭和17(1942)年)に日本電力株式會社と日電産業報國會が連名で発行した「記念」
という本も残っていた。この本には勤務場所ごとに全社員の写真が掲載されている。(写真上の右)
私の父は本社の會計課の一員として写っていた。
父が入社した昭和4(1929)年は世界恐慌が起こった年で大変な就職難の時期だったと思うが、父の叔父が
日本電力社長の池尾芳蔵氏の知遇を得ていたので入社できたのだと思う。
父の叔父が池尾芳蔵氏から贈られた写真が残っている。
私の祖父は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道に勤務していた。ここは電力を使用する会社である。
父は電力会社に勤務、私は発電設備メーカーに勤務した。3代続いて電力に関わる仕事をしたことになる。