皆様からのお便り 「フォン・シーボルトとおらんだ苺」 牧浦 秀治様

 「フォン・シーボルトとおらんだ苺」     牧浦秀治     2022 年 06 月著

 青い紫陽花の花言葉は、辛抱強い愛情。フォン・シーボルトは、この花を愛する人の名で 呼んだ。“Otaksa”

 フォン・シーボルト、1796 年、南ドイツ生まれのドイツ人。
ビュルツブルグ大学で医学 を学びドイツで開業する。26 歳のときオランダ
国籍も取得。オランダ植民大臣ファルクの 好意で 27 歳で長崎出島に派遣
される。
 1823 年 8 月長崎着、今から 199 年 前のことだ。着任 3 か月後に16歳
の其扇(お滝)さんと結婚する。お滝さん とシーボルトの馴れ初めを、
シーボルトの孫・お高さんが次のように語っている。
  「祖母の滝は大変美人でございました ので、今小町などと評判された
ものでご ざいます。ある唐人船の船主が築地の服部さまのお屋敷で祖母を
見染め、ぜひ妻 にと懇望して参りました。
  祖父シーボルトもまた出島出入りの人たちから、祖母の噂さを聞き伝えて
おりましたので、オランダ通詞のお世話でひそかに銅座の楠本をたずね、
祖母の姿を見たのでございます。 以来、祖母の事が忘れられなくなったもの
でございます。 唐人と紅毛人と両方から見染められたので、どちらを選んだものかと迷ったあげくに、クジ引きでとなり結局は
シーボルトに身を任せることになったのでございます」。
 
  お滝との結婚をシーボルトはドイツの母と伯父へ手紙で伝えている。
  「私は遂に望みを果たし、8 月 12 日にナガサキの港に着きました。・・(中略)・・ 愛すべき 16 歳の日本の乙女
の腕に抱かれて。というのも選択よろしきを得て彼女を得るという幸運に恵まれた私は今やひとりのアジア美人を所有して
いるのです。彼女をヨーロ ッパ美人と取り換える気などとても起きそうにありません。」

 クジ運で好きな人と結ばれたシーボルトの一方的なひとめぼれだったようだ。 1827 年、二人の間におイネを授かる。
 翌年、禁制の日本地図ほかを持ち出そうとしたシ ーボルト事件が起きた。門人や友人が囚われてしまったシーボルトは
日本帰化を申し出る が認められずに国外追放を言い渡される。来日して 6 年目、1829 年、長崎港を出発して ジャワ島経由で
オランダに戻る。
  長崎を去るときに、お滝とおイネが生活していけるようにと三千坪の土地と銀 5 貫(現 在の価格で約 835 万円)を残した。
ジャワ島から 3 通の手紙をお滝に書き送っている。

  最初の手紙で、貴方たちが平穏で幸せに暮らせますようにと、鼈甲櫛や簪にサフランなど の贈り物とあらたに銀 10 貫も
日本に行く仲間に託していると書いている。毎年、贈り物 をすることも約束している。

  シーボルトは覚えた日本語を駆使しオランダ・ライデンからお滝とおイネに手紙を書く。

「ニチニチ ワタクシガ オマエ マタ オイ子ノナヲ シバイ〜 イフ」 (毎日私はお前とおイネの名を、しばしば呼んでいる。)

「ナントキワ オマエヲ マタ オイ子 モット アイスルモノヲ ミルナ」 (いつか、お前やおイネをもっと愛するものが現れよう。
その者を愛するな)

  この手紙が長崎のお滝さんの手元に届いたのは一年後である。空間と時間を一緒にで きない不安が行間に満ちている。
  離れると心も離れていく。シーボルトの不安が現実にな った。この手紙を受け取ったとき、お滝はすでに再婚していた。
再婚を知ったシーボルト は便りを出さなくなった。その 14 年後に 49 歳のシーボルトは 25 歳年下のドイツ人令嬢ヘレーネ
と再婚した。
 
  シーボルトが日本の家族と再会するのは30年後、日本が開国した1859年のことだ。 ヘレーネとの子・12 歳の長男
アレキサンダーを連れてやってきた。長崎では出島商館長 ドンケル・クルティウスの館にお世話になった。
  出島で、還暦を過ぎた彼は 50 歳を過ぎたお滝と娘・おイネそしておイネの子・お高と 30 年ぶりに会う。
再会したお滝とおイネに「どんな日でも、おまえ達のことを忘れたことはな い」と渡されたのは、
  「von meine kleine Oine fur meine Mutter」(私の可愛い“おイネ”からお母さんへ)と表面に書かれた紙包みと、
“蓋の表にお滝が裏にはお稲が描かれ た煙草入れ”だった。
 髪包みの中には“おイネの髪の毛”があった。これらはお滝が 30 年前に追放されて日本を去るシーボルトに贈ったものだ。
シーボルトは再会して 3 年後に日本を去る。その 3 年間、あれほど愛し合ったお滝と の交流の跡が見られない。

 お滝はシーボルトと別れて 2 度結婚した。なぜ結婚を繰り返 すのか。そのことを許せないまま日本を離れたという。
『幕末の女医 楠本イネ‥シーボルトの娘と家族の肖像‥』(宇神幸男著)を読んだ。シー ボルトの純粋さをこの本を読むまで
信じていた。 男は初恋の人に会いたいと思う。時間はお互いに流れ、若さを奪っていく。鏡に写る老 いた自分の姿を認めても、
心に残る相手の姿は変わっていない。日本を去った時の 21 歳 のお滝と再会した時の 51 歳のお滝。30 年の歳月は、
二人の出会いを残酷なものにする。思い出は遠くなるほどに美しくなる。

 お滝とおイネに残していた鳴滝の土地家屋は人手に渡っていた。それを
買い戻し、新たに 建物を建設し、長崎での住家とし た。

 “鳴滝塾”と検索すると左記 の写真がでてくる。
医学塾“鳴滝 塾”ではなく、再来日したシーボ ルト父子が住むために、
建てた鳴滝邸である。
 真ん中の門入口に長男アレキサンダーが映っている。
 お滝は日本に戻ってきたシー ボルトに同居を申し出るが拒絶 される。
彼が妻として愛したのは 16 歳の少女であり、往時の美貌を失った 50歳
過ぎの老女には幻滅したのかもしれない。
  鳴滝邸では身の回りの世話に 16 歳の少女“しお”を雇っていた。
しおは、来日翌年の 1860 年、シーボルトの子・松江を産む。シーボルト
は若いお滝との甘美な思い出だけを 愛していたのだろうか。

 

 1866 年 10 月 18 日、シー ボルトがミュンヘンで亡くなる。
享年70 歳。死の床で「私は平和 の国へ行く」と呟いた。

 1869 年 5 月 23 日、お滝が 長崎で亡くなる。享年 63 歳。
病床で 「おらんだ苺、おらんだ苺」 とうわ言を言った。出島の花畑 の
赤いイチゴの思い出に浸って いたのだろう。苺は当時「おらんだ苺」
呼ばれていた。

二人は死の際で同じ思いで邂逅した。 紫陽花が雨滴を抱き、赤い苺が店先
に並ぶ季節がやってきた



  <追記:伊藤> 
 長崎寺町にある晧台寺(こうたいじ:長崎市寺町1-1)にシーボルトとお滝さんの一人娘・楠本イネさんの墓があります。
 イネさんは日本最初の産婦人科医と言われ大阪で産婦人科病院を開設した後、長崎に戻り楠本家の墓地に永眠しています。
 (写真:晧台寺の楠本イネさんの墓<中央>とご両親お滝さんとシーボルトの功績と歴史を示す説明板〉