皆様からのお便り 「米国三菱重工業の設立」  松永 巌様

 多くの反対意見や環境を乗り越えて1979年に米国三菱重工業が設立された経緯を関係者とのやり取り含めて振り返って投稿
頂きました。何事も新しい事を始めるのは大きな苦労を必要としますが、著者の当時の意気込みが今でも伝わってきます。【伊藤】

  米国三菱重工業の設立        松永 巖

 社命により1976年(昭和51年)4月より米国シカゴ駐在となった。
 シカゴには産機、冷熱、建機より係長級の三名と現地雇用の日系二世の女性秘書が居て、ライセンサーとの連絡と情報収集が
主な仕事であった。事務所は95階建てのジョン・ハンコックビル24階、米国三菱商事(MIC)と同じフロアであった。
 着任3ヶ月後の7月13日ニューヨークのMIC本社を訪ねた。時の社長は西田俊吉氏。機械の担当に星出寿夫氏が居た。
星出氏は数年前他界したが、宇宙飛行士星出彰彦氏の父上、サウジのリヤドの所長時代にも会った仁で、歯に衣を着せず物を
いう人であった。

 初対面の私に「松永さんの様な人がアメリカに来て何をするんですか?」と問うた。私も一瞬当惑したが「その中に仕事を
しますから見ていて下さい」と笑って答えた。

 私は当時米国から技術を吸収する時代は済んで、米国を日本製品の一大市場とすべきであると考えて居て、1977年
(昭和52年)11月「海外報告」に(中西部を通して見た米国)と題した論文を「社外秘」として本社に提出した。
米国を市場と考えて物を売るにはメーカーとして「製造物責任」(Product Liability =プロダクト・ライアビリティ)
と言う法律が存在し、商社や代理店では代行は不可能で、メーカーの現地法人(Legal Entity)が絶対必要であると
確信して居た。

 1978年(昭和53年)4月、一時帰国し、海外部に現地法人の必要性を説き、経営トップに説明する事となった。
金森社長、末永、谷口両副社長はじめ関係役員、市川海外部長、田中次長のスタッフ等に説明した。海外部の田中君が
「商事(MIC)が反対するだろう」と発言し、谷口副社長が「松永君が商事(MIC)幹部を説得すれば私が応援してやる」
と仰しゃり一同了解された。私は急遽米国に帰り、西田MICシカゴ支店長と相談、共にニューヨークのMIC本社を訪ねる事
とした。

 三村庸平社長(西田前社長の後任として赴任されて居て後、商事本社社長)、近藤健夫副社長(昭和19年東大・航空卒、
三村社長の後、商事社長となるも急逝)、西田浩三シカゴ支店長にご参集願い持論を展開した。

 私の説明が終わるや否や三村社長が「松永さん、是非おやりなさい!私が応援します!」と言って下さった。勿論近藤副社長
も西田支店長も異存はなかった。

 海外部の田中君等の意見とは真逆で、私は天にも昇る心持であった。すかさず三村社長が「本社を何処にしますか?」
と問われたので「シカゴにします!」と即答した。
「ニューヨークは麻薬と犯罪の巣窟の様な所、時差を考へれば東海岸、西海岸へ飛行機で2時間、実質的に米国の中心と
考えられます」と申し上げた。三村社長は「全く同感です。私も本社を地方へ移したい位です」と同意して下さった。
事柄を直ちに重工本社に報告。視察とMICへの挨拶のため谷口副社長と海外部の田中君が米国に来訪。諸準備を進める事とし、
顧問弁護士にシカゴの日系三世のホーケン・セキ氏を指名した。本社から総務、海外、資金、法務の担当が次々にシカゴに来て
日夜忙殺された。

 社名は幾つかの中から谷口副社長が決定し、日本名は「米国三菱重工業」英文名は「Mitsubishi Heavy Industries America Inc.(略称MHIA)となった。

 社長は船舶から青木豊氏、副社長にニューヨーク支所長中山幹夫氏とシカゴ所長として私が任命され、海外部の大内功君が
総務部長、他にヒューストン、サンフランシスコ等の支所長が任命され、1979年(昭和54年)7月2日付で現地法人が
発足した。

 同年9月19日設立記念パーティがシカゴのリッツ・カールトン・ホテルで開催され、金森社長、中野三郎取締役、
市川海外部長等が出席、イリノイ州、シカゴ市からも要人の臨席を仰ぎ盛大に挙行され、待望の現地法人が誕生したのであった。
                         2022年7月2日(設立記念日)著

右より 大内功吉総務部長、著者(松永EVP/シカゴ所長)、佐藤弘泰MHI総務課長(後自工総務部長)、青木MHIA社長、
    ホーケン・セキ顧問弁護士、中山EVP/NY所長、セキさん秘書

 


 MHIA設立後1979年9月にシカゴ事務所訪問された金森社長他
 御来賓サインより。