皆様からのお便り 「あの日は遠く 常磐勿来を襲った津波」 緒続真人様

津波は砂浜から押し寄せ、防防波堤を乗り越え、道路沿いの部落を飲込んだ.
  (上部/北東)方向に10キロほど行けば小名浜港となる。 

  甚大な被害を出した2011年3月11日東日本大震災から12年を経過しますが未だ多くの爪痕を残しています。
  この日に因んで緒続様から投稿頂きました。(伊藤)


 「あの日は遠く 常磐勿来を襲った津波」 (2022年11月14日 福島県いわき市植田撮影) 緒続真人

  この地で1年間過ごしたことがある。もう40年も昔のことである。すぐ傍の発電所で仕事があり長期の現地滞在となった。

 その時泊まった下宿旅館は海岸沿いにあった。宿のおばさんは親切で優しく、仕事から帰ったあとの一杯とおいしい夕食は、
きつい仕事を忘れさせる至福の時間があった。

 この地を離れても宿のおばさんとの年賀状のやりとりは続いた。ところが2011年3月11日の東日本大震災発生の翌年から、
年賀状は途絶えた。

 襲った津波はこの地も例外ではなかったのだ。以来、わだかまるこの地の被害とおばさんの消息。
 今回の旅の目的は、この地を訪れ、この目で確かめることにあった。その宿があった場所に行く。昔の痕跡は何もなく、
すっかり更地になったあとに戻ってきた人達の新しい家がポツポツと建つ。その住民に聞いた。

  「津波は押し寄せてきたが、全員高台にある森に避難しこの地域からは犠牲者も怪我人もでなかった、」 と。

 おばさんは無事だったのだ。でも、その後の消息は分からない。おばさんは、もう90歳は超えておられるはず。
 ご存命で元気にしておられるのだろうか。そういう私も齢を重ね、ここに立つ。あの日は遠く・・・・・・
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補足】
 上記は、写真に文章を添え、随時アップしてきているホームページ「緒続のアジア見聞録(今週の一枚)」から、
そのまま転載したものです。

 ここの説明では「・・・すぐ傍の発電所で仕事があり・・・・」とだけ記載していますが、具体的には1985年春から
約1年間実施された常磐共同火力勿来発電所でのCWM実缶実証試験のための出張でした。
 【注】CWMとはCoal Water Mixtureの略で水に石炭(微粉)を混合、スラリー状の液体にし燃料として利用する技術です。

 ここ勿来での1年は、派遣された三菱重工の仲間のみ
ならず、顧客(常磐共同火力、他)、据付業者、地元の
人々と共にした苦楽の思い出が凝縮した1年でした。

 そのなかで、紅葉の裏磐梯への宿泊旅行、スキー経験が
ほとんどない我々を山形の天元台スキー場に案内して
くれたのも地元の人々でした。
 常磐共同火力主催で発電所構内をゴールとする駅伝大会
にも招待され、長船現地からは2チームがエントリー、
私も選手として出場しました。
 そのとき沿道で受けた植田町の人々の声援は今も
忘れません。
 夏の盆踊り大会、秋の芋煮会、すぐ傍にあった常磐ハワイアンセンターでのくつろぎと憩い・・・・・・・・・・
 苦しい思い出は忘れてしまっても、楽しかった思い出は
次々と蘇ります。

 「国内工事現地で一番行ってよかった場所は」、と、聞かれれば、何のためらうこともなく「常磐勿来」と答えるでしょう。
 ここには地元の人々の溢れる人情に包まれた特別の空間だったからです。
その象徴的な場所が、あの下宿旅館だったに違いありません。
                         
 そこは、あの日の津波で流され、跡形もなくりました。でも、私の心の中に残る「この地」は永遠に色あせることなく、
あの日が来るたびに、その思いは強くなっていくことでしょう。以上