皆様からのお便り 「長崎開港前のキリスト教布教活動」~南蛮医・貿易商・修道士 ルイス・デ・アルメイダ~ 牧浦秀治様
長崎開港以前のキリスト教布教活動~南蛮医・貿易商・修道士 ルイス・デ・アルメイダ~ 牧浦秀治
1.長崎開港以前の宣教師たち
私も含めて長崎に住んでいた人は、「キリスト教の歴史は1570年の長崎港開港から始まる。東洋の“小ローマ”として
栄えた長崎は1614年の徳川幕府の禁教令により教会が破壊されその栄華の終焉の始まりとなる。決定的な出来事は
1637年に起こった島原の乱だ。」と認識していると思います。
以後、布教と密接な関係にあるポルトガル人は永久追放されポルトガル船の入港が禁止、代わりに平戸にいた
オランダ人が入ってくる。そして長崎はキリシタンの町から出島を中心とした南蛮貿易の町になる。
1549 年フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して長崎開港までの21年間の宣教師たちの布教の歴史がある。
ザビエルが布教の中心地としたのは周防山口である。ザビエルの後の日本布教長となったトルレス(Torres)が
1557年当時の宣教師の状況を次のように報告している。
「戦乱の世に何名かの司祭や修道士は日本を去った。今、日本に残っているイエズス会士は8名だけである」。
当時外国人宣教師は8名しかいなかった。下表は1557年段階の8名中、6名の動静だ。
2.南蛮医・貿易商・修道士(イルマン)ルイス・デ・アルメイダ
布教は二つの手段で行われている。領主には南蛮貿易の利を、貧しき民へは慈善事業を通じての救済を。
慈善事業では南蛮医学が大きな力となった。
長崎開港以前の布教活動として、南蛮医で貿易商である修道士ルイス・デ・アルメイダに注目したい。
長崎市夫婦川町に春徳寺がある。その石垣に彼の名前がある。
「1567年頃、ポルトガルの貿易商人アルメイダが長崎地方で最初に
キリスト教を布教」と記載されている。1525年ポルトガル生まれ、
祖父がポルトガル国王の侍医を務めた名門だった。21 歳の時に外科医師と医学教授の免許を得た。
アルメイダの祖父はユダヤ人と結婚していた。異教徒の血を引く者は、まともな職業に付けない。異教徒の血が混ざると貴族たちは結婚を
認めなかった。
植民地ゴアで外科医として働くために1548年リスボンを発つ。ゴアで知り合った恋人が高熱に罹ったが、自らの医学は彼女を救え
なかった。彼女を救えなかった未熟さに医者を辞め、彼女の父上の貿易を手伝う。
中国や日本との貿易で莫大な富を得たアルメイダだが、人生が満たされない。ある航海で日本伝道へ出向く宣教師に
出会う。
アルメイダの医学技術を知った宣教師は、「医師の職業は神が貴方に与えたもの、その力で貧しき民を救え。
その知識を使わないのは神に逆らっていることだ」と諭す。日本で宣教医となると決心した。
1555年平戸に着いたアルメイダは、大友宗麟の治める豊後府内(現在の大分市)に行く。
私財をイエズス会に寄進し1557年大分に日本で最初の西洋式病院である府内病院を開設する。
・老若男女、貴賤を問わず病む者を受け入。
・「肉体の薬」と「魂の薬」で治療。
・外科、内科、癩科の設置。
・内科は漢方薬、外科は南蛮医学、癩(ハンセン氏)患者への当時特効薬と
いわれた大風子薬を処方。
・聖水や洗礼を「魂の薬」として処方。
しかし欧州のイエズス会から「命を決めるのは神のみで、魂を救うことに集中すべき」
と宣教師の「医療禁止令」が1560年に日本にもたらされ、アルメイダは博多、平戸、
度島、生月島・・・と開拓伝道へと去っていった。
アルメイダの功績を称える像が大分市の府内城跡近くの公園にある。(左上の写真)
3.南蛮医と焼酎
アルメイダは不治の病と放置された外傷や腫物を外科的な治療で全快させている。患部を切開し切除摘出し止血し
縫合する。どのような消毒法をとったか資料はないが、『切支丹の社会活動及南蛮医学』(海老澤有道著、昭和19年3月
発行)に以下の記述がある。
「創傷には切傷、突傷(つききず)、鉄砲傷、打身などの別あり。金創(刃物による切傷)の治方は傷の深浅に
拘わらず焼酒を温め木綿を浸し、これにて創面を洗い、凝血を去りて後に椰子油を傷に塗り、針にて傷口を縫い、
再び創面を『焼酒』にて洗い・・・・」。
焼酒とは中国の蒸留酒、日本の焼酎。蒸留酒は日本酒よりアルコール分が高い。蒸留酒は15世紀ごろシャム国(タイ)
から「南蛮酒」として沖縄に伝わり「泡盛」となった。府内病院を開設した時、製造技術は九州に広まっていたと
思われる。アルコール分が36%以上だと消毒効果が期待できる。蒸留原酒のアルコール分は 43~45%で、消毒効果が
あったのだろう。我々は焼酎にアルコールがあり、アルコールに消毒効果があると知っている。アルコール成分を知ら
ない当時の人たちが、なぜ焼酎を使い始めたのか興味があるところだ。
4.アルメイダのその後
修道士で外科医のアルメイダは魂の薬(信仰)と肉体の薬(医学知識)で開拓伝道の地で多くの人たちの病を治した。
大村純忠の娘の治療、五島領主熱病治療などが報告されている。
九州各地に伝道の燈を灯すために“生ける車輪”(ヴィヴァ・ローダ)のごとく休みなく各地に出向いた。歩いた距離は
約2万1300キロだったといわれている。
しかし、彼が修道士から司祭になったのは死の4年前だった。天草河内浦で1583年、58 歳で亡くなった。
「死期が近づくと彼が住む貧しい家はキリシタンであふれた。人々はアルメイダ司祭の足に接吻するためにそこにきて
彼の死を惜しんで涙した」とルイス・フロイスは著書『日本史』に書いている。以上