長与法妙寺の釣鐘鋳造


 


長与法妙寺の釣鐘鋳造(戦後不況時)  長船よもやま話より + 取材エピソード(牧浦秀治様)  New!



戦後仕事のない時代、幸町工場で機関車を修理したという記事を今年の6月号に掲載しましたが、今回は鋳物工場でお寺の釣鐘を鋳造した
というエピソードです(事務局)





当時この記事を担当した牧浦秀治さんが調査した時の思い出をエピソードとして綴ってくれましたので掲載します(事務局)

長与法妙寺 釣り鐘取材エピソード  New!
                         報告者 牧浦秀治

 今回選んで頂いた「釣り鐘」は思い出深いものです。最初に全員と釣り鐘が写っている写真(上記)から始まりました。

 亡くなった黒崎孝明さん(元長船一工作、火プ建OB 故人)の技術学校時代の伝手で、鋳物に携わっていた関係者を探しだし、その人のご自宅
に行きました。梵鐘の製作図(鋳造方案)もありました。そこから長与の法妙寺が見つかり、長与のお寺に行ったところ鐘は長与のお金持ちの寄贈
だと分かりました。 その子孫(養子)の方は70歳過ぎていたと思います。お元気でした。その方のお父さんが寄付されたとのことでした。
ご自宅に伺いご仏壇に線香をあげて養子の息子さんから当時のお話を伺いました。
 
「父は、尾崎太三郎といい長与町浦郷で米穀商をしていた。相当儲かった。熱心な日蓮宗徒であった。子供のない太三郎は溜まったお金で梵鐘を
造り菩提寺である法妙寺に寄進する。昭和13年のことである。その梵鐘は太平洋戦争時に国に供出された。梵鐘の代わりに喚鐘の音が響く寺を
憂いもう一度梵鐘を寄進しようと決めた太三郎は、戦争が終わると仕事に困っていた三菱重工長船に依頼し梵鐘を造ってもらった。当時の鋳造工場
に勤めていた方(吉岡社員、第一鋳造係 方案スタッフ)が法妙寺の檀家であったため当所で製作することに決まった。
 長船で戦後造った梵鐘は、太三郎が昭和13年梵鐘寄進時に作った鐘楼堂に吊り下げられた。昭和23年4月のことである。太三郎の親戚の話に
よると、梵鐘の製作を請け負った長船の人たちは2000軒の檀家をもつお寺の鐘にふさわしい音を出すのにずいぶん苦労したそうである」。

 平成18年9月17日の台風で鐘楼堂は倒れたが三菱長船で造った大梵鐘は無傷のままだった。その後、新しく建てられた鐘楼堂で今も斎藤郷に時
を告げる。尾崎太三郎氏は昭和39年12月13日、87歳で没。その戒名は「妙法大法院梵鐘日斎居士」。“梵鐘”の文字が含まれている。

 「釣り鐘」のご子孫はもう米屋を止めて長与でミカン農家をしていました。私が、長崎を離れるまで、毎年ミカンを我が家に持って来てくれま
した。川棚の常在寺も黒崎さんと一緒に尋ねて物語を膨らませる予定でしたが、行かずじまいでした。
 
添付資料:①梵鐘製作図(鋳造方案)  ②初代梵鐘寄進石碑