皆様からのお便り 2

「私と車」、「米国での交通違反」  松永巖様     New!   


私と車         (「ホトトギス」平成30年9月号に掲載されたもの)

私が最初にハンドルを握ったのは、東大の2年生の五月祭の時である。白動車メーカーが、色々車を造り出した頃で、五月祭には展示の意昧も含め
て、新品のバスや乗用車を貸して呉れた時である。当時ガソリンの入手が困難で、顔の効く者が運輸省辺りに行って分けて貰って来た。危い話で
あるが、公道ではない大学の構内で、人通りの少い所を選んで、これ等の車を無免許で乗ったのである。
 会社に入社して5年後の昭和33年(1958)の半ば、自宅が三菱重工独身寮の近くのため、同じ職場の寮生二人と私ともう一人の四人で
2万円ずつ出してフランス製ルノーの中古車を買った。誰も免許証を持たず、これで練習して取ろうと言う事で、車は寮の空地に置いて、隣の長崎
大学附属小学校の運動場で、休日に集まって練習した。時には無免許で恐る恐る公道も走つた。
 或る雨の日に私が乗って舗装のない泥道の坂を下る時、ブレーキが効かず、タイヤが橇の様になり、ハンドルも効かず2m位の段差を落ちた。
車は横倒しになり、私はドアを上に押上げて外に出た。幸いに落ちた所は薯の蔓が山になって、クッションの効果で車体には掠り傷さえ無かった。
休日であったし、寮が近かったので寮へ走って行き、2人が来て呉れた。ルノーが小さいからと言っても3人では起こすことも出来なかった。
寮から電話で業者に依頼し、翌日レッカー車で道賂に戻して貰つた。本当に幸いなことに警察の目に触れることは無かった。若し見付かって居たら
大変なことになって居たと思う。
それでも免許は取ろうと思い、或る日バスで試験場へ下見に行った。自勣車学校など未だ無く、近くに試験車と同じダットサンを貸す所があった。
ルノーとは形から違つて、ルノーは流線形、ダットサンは箱形、ギアの入れ方も違う。親父が「試験は何時か」と聞くから「明日だ」と答えると
「それは無理だ」と言う。
「でも兎に角乗って見る」と言つて借りた。いきなり道路を走った。数十分位乗って車を返却し、バスで帰つた。そして翌日、試験場で必要な手続をして実技に入った。直線、カーブ、信号、車庫入れ、先ず先ずミスなく出来て最後に、坂の途中で止めて再発進をする坂発である。ブレーキを踏ん
で車を止めたが、エンジン迄止まって終った。エンストである。ここで慌ててはいけないと一息ついてエンジンを掛けスタートさせ、無事実技試験
を終了した。結果的に一発でバスした。思い起こせぱ、あの大学の五月祭の時、構内で無免許運転で経験したのが功を奏したのだと解り今でも感謝
して居る。
 免許が取れたので、自分個人で英国製オースチンの中古を15万円で買った。英国製と言えぱ聞えは良いが、10万m程走ったポンコツで。一寸
した坂も昇れず、坂の多い長崎では役に立たず、直ぐノックダウン(組立だけ国内でやる)のヒルマンミンクスの中古に変えた。値段は40万円、
最初のルノーの五倍。当時の私には負担は重かったが、ボデーは白馬のごとく真っ白でピカピカ、水色のモールが付き、アンテナも電動、LED
のごとき光のフォグランブなど、皆が羨ましがった。
 この車は長崎造船所の従業員では14番目の駐車スペースを貰った。その後車の所有者は爆発的に増加し、構内駐車不可という事になった。私は
当時本部から離れた職場で機械設計課長をして居り、本部との往来が多く、自分の車を使用して居たので、職場での駐車スベースは確保されて
居た。その後コルトが出たのでコルトに変え、昭和46年本社に転勤するまで乗った。その頃新型ギャランの発売が始まろうとして居た。
 自動車好きで、三菱自動車の創設者でもある牧田輿一郎という人が昭和44年三菱重工の社長になられ.ギャランを自慢されて居た。私は
「ドイツのオペルに似てますね」と言って笑われたが、本社への転勤を推して下さり、重要仕事を任される様になったが、残念乍ら社長任期途中で
早世された。
 本杜へ転勤して勿論直ぐギャランを買った。色はゴールドのデラックス仕様で自慢の車であった。これで関東一円のゴルフ場へ駆り出し、郷里の
新潟へも夏休みに初めて出掛けた。この時母に座敷へ呼ぱれてお説教された。「お前の身体は、お前だけのものではない。家族のものであり、会社
のものであり、日本の国のものである。事故にあったらどうする。二度と車で来るではない。列車があるのを知らぬのか。帰りは無理せず三国峠
辺りで一泊して帰れ」と諭された。明治生れの厳しくも慈愛のある母であった。1年後、深夜に母の訃報を受け、車で出発し掛けたが、この言葉を
思い出し、翌朝一番の「とき」で郷里に向った。90歳の今年免許更新の年であるが免許返上の年にしたいと考えて居る。
       (2018.1.25)


米国での交通違反     (「ホトトギス」平成30年11月号に掲載されたもの)

米国内で、出張中や旅行中に、一時的にレンタカーなどを運転する時は、国際免許か、時によつては日本の免許を示す事で運転する事が出来るが、
駐在員など長期滞在や住民となると、州によって異なるが、私の住んだイリノイ州では必ずイリノイ州の免許証が必要であった。その為、英文の
法規を勉強する必要があり、試験場での面接と法規、実技試験を受けなけれぱならない。面接での早口の英語が解らぬと、「英語が解らない」と
マークされ、試験は通らない。
昭和51年4月より、米国駐在、現地法人役員として約5年滞米する事になった。レンタカー運転時代に法規の勉強もして居たので試験は難なく
パスし、幸いにも滞在中一度も人身事故は無かったが交通違反は何回かあった。米国は土地が広く安いせいか、街中に有料駐車場が沢山ある。
道路にはパーキング・メーター付の駐車スペースがあり、個人経営の駐車場より安いので利用者も多いが、タイム・オーバーによる駐車違反者も
多い。違反者には所要事項の記入された切符がワイパーに挟まれる。切符は封筒になって居てパトロールの居る場合は罰金4ドルを入れて渡す。
居ない時は四ドルの小切手を切って封筒に入れて宛先に送る。駐車料の積りで敢えて罰金4ドルを払う者も居る。放置すれぱ自宅に督促が来る。
そして違反ポイントが付く。滞米中何回か小切手送金をした記憶がある。
 その外に、交通規則違反と言う事でパトカーに2回捕まった事がある。1回目は、日本から出張で来た者のゴルフクラブを買いに郊外に行つた
帰り、高速道路を降りて、暫くしたら、後からパトカーが「ホワイト・クライスラー・プルトゥザ・ライト!」(白いクライスラー右へ寄せて
止めろ!)と繰返し呼ばれた。寄せて止めたら警官が来て「お前は高速を降りて支道に入っても、同じスピードで走つて居た。20マイルのオー
バーだ。ここで罰金20ドル払うかそれともコート(裁判所)に行くか?」と言うから、私は「アイルゴートゥザコート」(裁判所に行く)と答
えた。それは罰金は会社には請求出来る金ではなく、コートに行つて講習を受けれぱ免除されると言う話を聞いて居たからである。
 警官は書類を作つて呉れたので、指定された通りコートに行つた。コートと言つても、日本の小学校の教室の様な部屋が幾つかあって、速度違
反、信号無視などカテゴリー毎に集められ、名前を問われた後、何分間かのスライド映写や、お説教があり、無罪釈放。半日は潰れたが、罰金は
助かった。
 2回目は「インプロパー・ターン」(不適切な右左折)と言う遠反。シカゴ市の中心を南北に走るメインストリート、ミシガン・アベニューの
1番レーン(日本の最低速レーン)を走って行ったら、交差点の手前にバトカーが停まって居た。仕方なく2番レーン(一つ高速側のレーン)に
移って右折した。その時、そのパトカーがサイレンを嗚らし、私の「ホワイト・クライスラー」を呼び止め、黒人の若い女性警官が出て来て、2番
レーンからの右折は違反(インプロパー・ターン)だと言う。私は「何を言うか、君が1番レーンに停まって居たから2番レーンに移って右折した
のだ。最適な右折(モースト・プロパー・ターン)だ」と言い返してやった。そしたら「文句があるならコートで言え!」と切符を呉れた。その
切符を持ってコートに行ったら、前回同様のプロセスを経て無罪釈放となった。余り経験したくない経験ではあった。   
        (2018.4.9)