長年長船原動機輸出で中国関連事業の中心で活躍され、現在も長崎で釣りや農作を楽しまれる一方長崎での中国人観光客のガイドなどされ地元活性化に大きな貢献をされている長谷川信栄様から生まれ育った会津の話から最初の中国向け大型火力の上海火力発電所の想い出話を寄稿頂きました。長文でしたので二回に分けて掲載させ頂きます。伊藤
中国との関わりと上海宝山火力(その1) 元長船機械営業部 長谷川信栄
1.中国との関わり
私の父は福島県奥会津の寺の住職でしたが、父の蔵書の中に漢詩の本が有りました。小学生5・6年の頃、何気なくめくったページに
“江碧鳥逾白、山青花欲然”[筆者書き下し文:江碧(みどり)にして鳥逾(いよいよ)白く、山青くして花然(も)えんと欲す。]が有りました。これは盛唐の詩人である杜甫の詩で「絶句」という詩題の一部でした。この本には書き下し文が無く、意味は殆ど分かりませんでした。中学に入り、3年生の国語の教科書にこの詩が有り、先生から書き下し文と意味を教わりました。前に一度見たことがある詩で有る事に気づき、親近感を覚えると共に書き下し文の簡潔さと歯切れの良さに興味を持ちました。それと詩の意味が自分の住んでいる自然環境:奥会津の只見川のエメラルド色の流れの上を飛ぶ白い鳥、緑深き山々に点々と咲く、燃えるような深紅のつつじ:と全く同じであり、深く感銘を受けました。これが中国との関わりの第一歩となったと思います。
(筆者が生まれ育った会津の名峰磐梯山の雄姿、猪苗代湖側から:奥会津はこの後方に位置する風光明媚な土地です。伊藤記)
2.北京放送を傍受
大学に入って第二外国語を選択する時、漢詩を原文で朗詠してみたいという夢が有りました。また父が朝晩唱えているお経(全て漢文の音読)を中国語の原音で読め、書き下し文にせず意味が分かるようになれば父を凌駕することが出来るのではないかとの思いも有り、第二外国語として中国語選択しました。一つ目の大学では日本史学を専攻しましたが、卒業後東京外国語大学の中国語学科の編入試験を受け、学士入学で2年生に編入しました。ここで3年間中国語と中国事情を学びました。3年生から4年生の2年間NHK外国放送受信部で北京放送を傍受し、ニュースの原稿を作る仕事をしました。当時日中国交回復前で日本から中国に記者を派遣出来ず、中国関連のニュースソースは主に北京放送に頼っていました。たまたま私が北京放送の傍受当番日であった1971年9月13日、毛沢東の後継者であった林彪がクーデターを企て、飛行機でソ連へ逃亡する途中、モンゴルで墜落したとの放送を最初にキャッチし、ニュースにした事を今でも鮮明に覚えています。
3.三菱重工サッカーチーム訪中に同行
1973年、東京外大を卒業して三菱重工へ入社、本社海外部(当時)へ配属となりました。同年6月重工サッカーチームの友好訪中団に通訳とて同行しました。この前年の9月、田中総理が訪中して日中国交が正常化しましたが、この1ヶ月前に三菱3社首脳(三菱重工・古賀社長、三菱商事・藤野会長、三菱銀行・田実会長)が訪中し、周恩来総理と会見することが出来ました。この時3社は中国政府から友好企業と認められました。
また、同総理から重工サッカーチームを中国に招きたいとの話が有りました。当時中国で最も盛んなスポーツはサッカーであり、中国のチームと親善試合をして欲しいとの要望でした。訪中した時は日中の国交が回復したばかりで両国間の直行便は無く、先ず香港に行き、鉄道で深圳に行き羅湖の国境となっている鉄橋を歩いて渡り、中国へ入境しました。
1973年当時、中国はまだ文化大革命の最中であり、街行く人は老若男女ともすべて人民服を着ていました。宴会等での中国人との会話は資本主義的なものが話題に入らないように注意する必要がありました。中国側との夕食会の余興でサッカーチームは中国語で“東方紅”を合唱したり、日本語でソーラン節を合唱したりして中国側から喝采を受けました。私は大学時代にNHKの中国語ラジオ講座で覚えた“草原情歌”を独唱しました。翌日の朝、中国側から当社訪中団の団長に思想的に問題の有る歌を歌ったとクレームが有り、団長からこっぴどく怒られた思い出が有ります。この歌は青海省の民謡であり、羊の放牧をしている人々がきれいな娘さんの住んでいる家の窓辺(モンゴルパオのとばり)を通る時に心惹かれて振り返るという歌詞であり、今中国で歌っても何の問題なく、むしろアンコールを受ける歌であります。その頃の中国では文革による思想統制が厳しく、淡い恋心を含む歌でも批判を受ける時世であった。現在の中国では恋を歌う多くの流行歌が溢れており、隔世の感が有ります。【以下の写真は当時の役職名で記載していますのでご了承ください。】(続く)
1973年6月 三菱重工サッカーチーム 訪中団全員で撮影(北京にて)
最前列左から4人目:杉山コーチ(FW)。2列目左端:二宮監督、右端:筆者。
3列目左から2番目:島田取締役人事部長、サッカー部長(団長)、3番目:斉藤常務(名誉団長)、4番目:黒田広報室長(副団長)、
右端:團野主任(秘書長:長機会会員)。最後列右端:横山キャプテン(GK)。
2013年3月5日三菱重工中国総公司(在北京)訪問時 前列左から2人目が筆者、その右が碓田中国総代表、
右から2番目が長崎屋副総経理(元長船営業)
2013年3月6日MHISH(三菱重工上海公司)訪問時 筆者退職時の夕食会。
中央の座席が筆者。左後ろから武田総経理、碓田中国総代表。他はローカルスタッフ