皆様からのお便り(2.B) 牧浦 秀治様

 COVID-19により世界的なパンデミックが発生して間もなく半年が経過しますが、感染症は戦争と同様に人類の歴史で今まで何度も
起こってきたことはご承知のとおりです。牧浦様より長崎が開国以来その最前線であったという非常に興味深い記事を投稿頂きました。
原稿を頂いたメールの前文からご紹介いたします。(伊藤)

「7月14日は検疫記念日です。コロナの感染が話題の現在、同じようにコレラに悩んだ長崎のことを調べて書きました。
長崎は頻繁に伝染病に悩まされています。でもポンぺ(ハ・ハルデスと一緒にヤーパン号で長崎に1857年やってきた)を祖とする医学部
です。伝染病を研究する熱帯医学研究所もあり、また長船がコロナ騒ぎをひき起こしたコスタ・アトラス号(623名中149名PCR陽性)
の対応も長崎大学ゆえです。
コロナが発生して長崎大学は企業と共同して40分で検査結果がでてくるシステムをその時は開発済みです。その検査システムを使用して
タイムリーの検査できたので感染が市民に広がらなかった。さすが、ポンぺさんが作った医学部、伝染病で鍛えられた医学部です。」

長崎とコレラ(明治時代)  牧浦秀治

 江戸時代長崎は唯一の世界へ開けられた窓だった。世界の物や情報だけでなく嫌われものも入ってきた。
伝染病である。横浜が開港すると長崎と横浜に外国船が入ってくる。外国船が持たされた病気にコレラがある。明治時代
感染源は、ほぼ、この二つの港からによるものだった。

 1877 年(明治 10 年)、一隻のイギリス軍艦が長崎港に入港する。その船はコレラが蔓延していた清国厦門(アモイ)
を 9 月 8 日に出て長崎に到着した。航海の途上、一人の水夫(乗組員)がコレラで亡くなり長崎の外国人墓地に埋葬される。
さらに船上と陸上の行き来を世話していた日本人水夫が病気になり、その日のうちに亡くなった。
明治 10 年は西南の役の年である。戦争自体は 9 月 24 日に終息したが、16 日には政府軍内でコレラ患者が確認されている。
兵隊間で感染し、その兵が故郷に凱旋し、イギリス軍艦から長崎に持ち込まれたコレラは、瞬く間に全国に広まった。

 日本全国では 1877 年(明治 10 年)に感染者(死者)1 万 3710 名(7,967 名)、翌年の 1878 年(明治 11 年)
は 867 名(275 名)と落ち着いたように見えたが、次の年1879 年(明治 12 年)は 16 万 2637 名(10 万 5786 名)
と最大になる。
下図は当時の長崎の感染者と死者の数である。長崎市の人口が 3 万 2 千名、その犠牲者の数の多さが理解できる。

 当時の長崎県令“北島秀朝”は臨時医員の雇用や長崎港口に設置されたコレラ感染者が隔離されている女神避病院
(伝染病の専門病院)を見舞ったりして感染拡大防止に精力的に動くが、自らも感染してしまい死亡。
享年36 歳だった。その陣頭指揮は感染禍にある市民を勇気づけた。諏訪神社の横の長崎公園に彼の碑が建立されている


 長崎港の入り口に戸町と西泊を結ぶ“女神大橋”が架かっている。女神大橋を建設するときに戸町側の橋台近くで約 60 数体の遺骨が出てきた。明治 10 年の墓碑があり近くに女神避病院があったことから、コレラで亡くなった人を埋葬されたものと思われる。女神大橋建設に伴い遺骨や墓碑は鍛冶屋町の大音寺に移転され女神大橋の戸町側橋台近くには「女神大橋無縁墓地祈念碑」が建立されている。


コレラは日本土着のものではなく、東南アジア大陸沿岸地域から外国船によりもたらされたものである。
1877 年(明治 10 年)、清国厦門でコレラの流行の情報をつかみ、日本に入港する船舶を検査して患者は避病院へ隔離する
こととし、清国との往来の汽船会社には乗客・荷物の点検しコレラ予防を喚起していた。しかし、英国公使の反対に在って
前述の長崎入港のイギリス軍艦のコレラで亡くなった水夫の入国を阻止できなかった。
 1879 年(明治 12 年)7 月 14 日「海港虎列刺(コレラ)伝染予防規則」(通常:海港規則)が制定される。
水際対策が重要であると長崎港口に長崎女神検疫所も設置される。しかし日本入港の際の港湾検疫を拒否する外国船が居た。
 1858 年(安政 5 年)の修好通商条約で、外国船舶に対する検疫権が制限されていたためである。外国船から持ち込まれた
コレラはその後も続く。外国船が船内の伝染病の病原菌を防ぐ隔離や消毒を実施せず、日本政府への通告なく船内でのコレラの
死者を持ち運ぶためである。
 1894 年(明治 27 年)日英通商航海条約が締結され“治外法権”が撤廃された。同年から翌 1895 年(明治 28 年)にかけて
アメリカ・フランス・ドイツを含む他の 14 か国とも同じ内容の条約が締結され効力は 1899 年(明治 32 年)から発生した。 同年に「海港検疫法」ができ伝染病の水際阻止ができるようになった。7 月 14 日は検疫記念日である。