皆様からのお便り(2.A) 松永 巌様

丹羽社長の想い出(以下敬称略)   松永 巌様

私の入社した時(昭和二十八年、1953年)の社長は丹羽周夫氏で大正八年(1919年)東大機械の卒業で同級生に桜井俊記氏、李家孝氏が居て揃って三菱重工に入社された。三人は終戦時財閥解体で三社に分割された時夫々社長になった。
 東日本重工に李家 孝氏(りのいえたかし)、中日本重工に桜井 俊記氏(さくらいとしき)、西日本重工に丹羽周夫氏
(にはかねお)で、数年経って三菱の名を冠することが許され、夫々 三菱日本重工、新三菱重工、三菱造船と改名し、
昭和三十九年(1964年)三重工合併して三菱重工(株)一社となった。
 私は昭和二十七年十一月東大工学部特別研究生として、機械工学科水力実験室で「軸流ポンプの研究」に従事して居たが、
就職を希望して担当の鈴木茂哉教授に相談した。教授は私の目の前で三菱造船に電話して推薦して下さった。
 面接に行ったら社長応接室に通されて、初めて丹羽社長にお目に掛かった。同席されたのは肥塚興四郎常務只一人であった。
肥塚常務は丹羽社長の一年後輩で鈴木教授の一年先輩であった。鈴木教授が電話されたのはこの方だった。この方は長崎ご出身で
「千代鶴」の蔵元で大地主の息子である事を入社してから知った。
 最初に口を切られたのは社長で、「君は私の叔父(丹羽重光名誉教授で「機構学」の著者)に教わったかね?」とのお尋ねで
あった。私は「入学した時は既に退官され名誉教授にお成りで、通常講義は受けておりません。」とお答えした。
 その他「私も卒業研究は水力をやったのだが、入口の所のプールは今どうなって居るかね?」など学生時代の事についての雑談
で、肥塚常務も髪の少ない頭を撫で乍ら言葉を挟まれていた。結論は「我々が決めるのではなく、来月長崎から関係者が来る
ので、その時再度来社をする様に」と言う事で退場した。
 丹羽社長は背が高く腰を伸ばし、値段の高そうな背広を召され、鼈甲と思われる太い縁の眼鏡を掛け、当時は高級品の
「ホープ」という煙草を吸って居られた。
 二回目は入社数か月後、私の初仕事として中国電力の230㎾の湯原堰堤発電所の小さな水車を受注した時の事であった。
この水車はダムの放水を利用して発電するフランス水車と言うものであるが、ダムの水位が大きく変わるので設計としては
可成りシビアなものであった。
 丹羽社長がどの様にして情報を得られたかは確かめなかったが、社長から直々に私宛に「水車は小さいが、落差変動が大きい
ので、注意して設計する様に」とのテレックスを頂いて本当に驚いた。それから数日して突然私の席の所にお出になり笑顔で
会釈された。その時は何も仰らなかったが社長のお顔が総てを語って居た。
その水車も設計を終了し、試運転も完了して無事引き渡しが出来た。
 因みに元原動機事業本部長 丹羽高尚副社長は丹羽周夫社長のご子息である。   2020年5月24日著 

【長崎造船所 150年史から第15代 丹羽周夫所長の紹介文です】