皆様からの「想い出の一枚」 『Ⓕチューブ2係』  飯島 史郎様

飯島様より貴重な想い出の一枚頂きました。三菱重工、長崎造船所、原動機事業本部の屋台骨を営々として支えている香焼ボイラ
工場に入社され,新工場を立ち上げた熱気と情熱が伝わる文章を是非ご一読ください。飯島様の若かりし「格好いい」姿と共に
長機会メンバーの市川様と岸様の若々しい姿も拝見されます。【伊藤】

 私は昭和46年の5月に第二工作部、製缶一課、チューブ2係に配属されました同年の夏に国内電力・自家発各社の幹部を
招待して「香焼深堀新ボイラ工場の完成を紹介する所を挙げての一大イベントが開催されました。この写真は、その折に誰か
の急発案でチューブ2係の事務所に居合わせた者を呼び集め、工場の前で撮った唯一の貴重な集合写真であります。運悪くその時
に居なかったチューブ2係のスタッフが3名、逆に工務課や生産技術係等からの分駐者が4名入っています。

 写真の右から2番目が筆者、中央が市川係長(後に広島製作所の副所長・所長を経て三菱製鋼の社長に)、その右後ろが
岸昭男氏(後に横浜製作所の副所長・所長を経て鉄建事業本部長に)で、課直属のスタッフとして後述するⒻチューブ2係工場
の工場建設と機械設備の据え付け等を担当されており、かつ筆者の指導員でありました。工程担当の平川スタッフ(左から三番
目)、品質担当の山田スタッフ(左から5番目)、庶務の岩永嬢、右から3番目が野田スタッフで工場建設と曲げ物設備を担当、
その左が安全担当の高比良スタッフ。筆者の右が、自分より半年前に途中入社した橋口孝君で、彼とは席を並べてはいましたが
生産技術係籍の分駐という立場でした。彼は地元出身で私生活面でも色々と教えて頂いた仲です。

 チューブ2係は“深堀地区”にあり通称Ⓕと呼ばれておりました。係は昭和45年の11月、私が配属される約半年前に発足し、
火力発電用ボイラの火炉壁と節炭器の製造を担当しておりました。工場は3棟と半棟からなり建屋面積は4万8千㎡、第二工作部
では一番大きい工場であります。しかし私が配属になった当時、生産に入っていたのは2棟だけ、残りの棟は未だ工場建設の
上で、土間打ち工事やら、天井クレーンの走行試験、一部では外壁工事も行っておりました。そんな状況ながら、稼働中の
2棟では既に徹夜交代のフル操業を行っておりました。現在の常識ではちょっと考えられない光景であります。

 少し離れた“香焼地区”には製缶一課、パイプ・ヘッダー係の工場やチューブ1係(過熱器・再熱器)の工場があり、既に1年
ほど前に工場が完成し、こちらは全面的な生産活動に入っておりました。

 当時、国内の電力需要の伸びはすざましく、電力各社からのボイラの注文に応じきれない状況、そこで、これに対応すべく生産
能力の大幅な増強が急務であった様です。当初は香焼地区への新工場増設で対応しようとしていた様ですが、途中から更なる
増強が必要と判断され急遽深堀地区にも工場を建てることになった様です。

 私が入社した当時、チューブ2係の社員作業者数は200人弱だったと思いますが、作業者の殆どが昭和46年入社の技訓生
と緊急公募の中途採用者で、元は寿司職人、自衛隊員、バスや電車の運転手・車掌等々で、製缶については全くの未経験者が
殆どでした。そこで、“助っ人”として元々火炉壁の組み立てや節炭器の製作を外注として担当していた佐藤造船とか長崎鋼業
などから多数の作業者が入り込み、更に天井クレーンの運転や工場内外の運搬にも長崎運送が入り込んでおりました。
これら協力会社からの派遣は総勢300人以上、そしてこの方達が実質的な生産を担っていた様に思います。

 そんな寄せ集めの作業員でスタート間もない工場は、素人目にも、一目で“大変だなあ”と感じたことを思い出します。
総勢500人もの現場を指揮する工場長は30歳そこそこの市川係長でした。しかし係長は肝の据わった方だった。部長や課長
からの苦言や横槍をものともせず、自身の信念に基づき淡々と指揮をとっておられた様がとても印象深く記憶に残っています。
工場内では赤チン災害や作業者間の喧嘩は日常茶飯事、そしてチョンボや誤作も多かった。係長やスタッフの皆さんはそれらの
対応で走り回っておられた。皆さんの顔は真剣そのもので、仕事をめぐっての、喧嘩さながらの激論が、度々目の前で繰り広げ
られた。
 当時、昼間に係長から声を掛けて貰った記憶はない、殆どの時間、係長もスタッフの皆さんも工場の中を歩き回り作業者の指導
とか製品のチエックをしておられた。一方、配属間もない私は、皆さんが走り回っておられるのを目で追うだけで何も出来ず、
歯がゆい思いにさいなまれていたことを思い出します。そんな中、頃合いを見て係長の「一杯、飲むか!」の一声。たまの飲み会
は何時も大いに盛り上がった。当時、酒が苦手の私にはちょっと苦痛でもあったが、昼間には見ることが出来ない皆さんの笑顔を
見るのがとても楽しく、そして交わされるたわいもない話にも興味津々、まだ慣れない長崎弁を一言も聞き洩らすまいと耳をそば
だてて聞いた様に思います。

 さて“出来の悪い問題児”と揶揄されていたⒻチューブ2係も、徐々に現場が落ち着き、纏まり始めた。自分も担当を貰い徐々に
ではあったが動き始め、仕事の面白さを感じる様になった。やがて工場の生産も軌道に乗り始め「Ⓕも中々やるじゃないか」と
評価する声に変わり、段々に「Ⓕは凄いぞ」との声も聞こえて来る様になった。そして、年々新たな技訓生も加わり、“助っ人”
は徐々に居なくなった。工場もスパイラル・フィン・ウェルダーなどの最新鋭設備の導入や、独自開発の自動化設備なども次々に
加わり徐々に近代的な工場へと変身して行った。そして昭和50年のことだったと思いますが、Ⓕチューブ2係は「製缶三課」に
なった。4つの係からなり、作業者数は350人程だったと思います。

 この一枚の写真を見る度に思い出す、懐かしい50年前の光景です。