皆様からのお便り 「石油と新潟県」 松永 巌様
石油と新潟県 松永巌様
明治の末期から昭和の初期にかけて「日本の石油王」と言われる仁が居た。その名は中野貫一。
弘化三年(1846年)新潟県蒲原群金津村(現新潟市)の生まれで、石油発掘に目を付け、明治七年(1874年)政府の認可
を得て事業を始め、「草生水油稼人(そうずゆかじん)」と言われた。
元来越後平野は微量乍ら石油埋蔵があり、天然ガスを発生する所が多い。新潟市の
近辺で公共団体が天然ガスを掘削、貯蔵し無償で各家庭に供給している所がある。
姉の稼ぎ先では煮炊き、風呂は勿論炬燵(堀炬燵に配管し、火に素焼きの骸骨状の
物を被せて暖を取る)まで採用して居た。
この様な実状から中野氏は掘削を始めたと思われるが、初めはガスばかりで、中々
油脈にヒットせず、最後に奥さんの着物を手放し、明治三六年(1903年)29年目
に漸く掘り当てたと亡き母から聞いた。爾来石油掘削が拡がって行った。
越後平野は東西に丘陵があり、そこに油田があったので、東山油田、西山油田と
呼んでおり、幾つかの石油櫓が立って居た。
この櫓を使用して数米のパイプをねじで連結し、先端に削岩機を装着して掘削する
のである。
(左 中野貫一氏肖像 1846年10月27日-1928年2月25日)
石油掘削は地層の成分を分析し、石油の有無を判断するのであるが、フランスのシュランベルジャー社のノウハウがあり、
世界中でその技術を利用している。私の生家の真東数キロの所に東山油田の櫓が幾つかあって、私の部屋からも見えた。
四六時中掘り続けるので夜になると明かりが灯り、機械の音がガラガラと聞こえて来ていた。
戦時中は油が不足し、石油探索が拡大されていた。人工地震を与えてその反射波から探索する方法で、我が家の前の木の根っこ
にもマークされていたが掘削には至らなかった。
戦中は松の木の根っこにある松脂(まつやに)迄も松根油と称し、石油代用として検討されていた。
中野氏は中央石油なる会社を設立し、発展させたが、やがては全国組織の帝国石油に吸収統合され、昭和三年(1928年)
亡くなられている。
昭和20年(1945年)敗戦となり産油国から大量の石油が輸入される様になり、新潟沖に大きな油田のある話も立ち消えと
なった。産油国や米国内で大量の石油を掘削されたため、掘削機械が必要となって来た。
三菱重工では私が部長の頃米国のエムスコ社と組んで、その機械を下関造船所で製造しており繁忙を極めた。大部分は米国に
出荷したが、現在紛争中のミャンマーがビルマと称していた頃大型機二基を輸出し、その起工式に今は亡き下関の所長執行昭雄君
と現地に出向いた事も懐かしい思い出である。
新潟県では石油には特別の想いがあり、友人でも石油関係に従事した者も多くいる。
今でも遠くに灯る明りを見ると、夜の石油櫓を想い出して懐かしい。
【中野貫一氏の紹介サイト】
【ご参考 ;フロンティアエネルギー(FEN)新潟殿向け発電プラント :伊藤追記】
松永様よりご紹介頂いたように新潟県には石油コークス(PC)が地元で取れてそれを利用したPC焚きの
発電プラントがあります。
FEN社は新日本製鐵株式會社(現日鉄社)・新日本石油株式会社(現ENEOS社))・三菱商事株式会社の3社
の共同出資により設立された「株式会社 フロンティアエネルギー新潟」で平成17年(2005年)7月に110MWの
PC焚き発電所の運転開始しました。
2005年7月11日に運開し、15年の事業満了を迎える2020年7月10日をもって、発電事業から撤退(設備停止)
その後、解体作業に移行しました。
【ユニット概要】
ボイラ:428T/H PC焚 非再熱単胴自然循環型ボイラ
蒸気タービン:110MW単車室軸流排気型復水タービン
三菱重工長崎造船所からは428T/H PC焚き非再熱単胴自然循環型ボイラーと110MW単車室軸流排気型腹水
タービン(各一基)を納入。