皆様からのお便り2  「澤本嘉文様を偲んで」 伊藤一郎

    

   「 澤本嘉文様を偲んで」   伊藤一郎
 
 澤本嘉文様(以下澤本さん:昭和37年長崎入社)は私の三菱重工入社時(昭和52年4月)の指導員(当時主任)
でした。2021年(令和3年)7月に突然倒れられ、入院され9月に当時のコロナ禍の規制でご家族も面会もできない
ままご逝去されました。本当に突然の訃報でした。

 私は、海外プロジェクトをやりたいという希望で三菱重工に入れてもらいましたが、最初の配属先が
「本社産業機械部ゴムタイヤ機械課」と言われた時は、期待していた大型海外プロジェクトではなくマイナーな機器
担当の部課のイメージで少しがっかりしていました。
 配属最初の日、丸の内重工ビルの地下食堂で配属先に連れていかれる時がきて、同期25名が待っていましたが、
なかなか私の引き取り手が来なくて殆ど最後になって、焦る様子もなくのっしりと引き取りに来て頂いたのが
澤本さんでした。
 苦笑いしながら「澤本です」と挨拶されて6階の事務所に連れて行ってもらいました。
 部屋に入ると当時の岡田太郎部長(後の常務・冷熱事業本部長)が笑顔で迎えて下さり、ホットしたのを覚えて
います。岡田さんから「君の指導員は同じ大学だから選んだけど、優しくて、良すぎる指導員だがしっかり鍛えて
もらって下さい」と言われた。

 澤本さんは緻密な方で、理屈っぽいけれど、何事も理路整然と考えておられて、いつも丁寧に指導してもらいました。
 一方私はアバウトな性格で何事にも澤本さんに大変ストレスおかけしたと思います。
 タイヤ機械は当時神戸製鋼と死活の競争をしており、見積も長崎から出てきた数字をどう価格に設定するかが重要で、
澤本さんは過去の価格や見積の中身を緻密に精査され、いつも細かい質問があり、ロジックを徹底的に質問されました。
 ある時夕方の会議が長引いて、その時友人との飲み会を計画していたので、途中で「すみません。用事があるので
帰っていいですか?」と言ったら、「何?いつまでも学生気分じゃないぞ。どちらが大事かよく考えろ」と
積もり積もった怒りの叱責があったのを思えています。時にやさしく、時に厳しい指導員でした。

ゴムタイヤ機械課は海外輸出が多くて、取り分け東欧で
大きな商談を抱えていました。
その中で一番の想い出は、入社3年目の1979年
ソ連向けの大型プラント商談を澤本さんが交渉責任者と
してモスクワ、レニングラードに長期出張され、私が日本
フォローし、受注したことです。

受注金額は当時の産業機械部の一年間の売上額(約200
億円)の大型受注でした。当時の共産国家ソ連は大変な国
で、電話もテレックスもすべて傍聴されていて、連絡は
暗号化して手元に暗号表を持って連絡取りました。
 やりたかった大型プラント受注を3年目に達成した
ことは澤本さんとの最大の想い出です。

 (1978年ごろの課内旅行:前列左端が澤本さん、隣が著者
 
 長崎にローテーションで転勤してからは、澤本さんと同期の内田捷治課長の下で厳しく教育されました。

 澤本さんは大の大相撲好きで、2014年秋場所で澤本さんを「砂被り」の座席にお誘いして一緒に楽しみました。
その時、「本当に良い冥途の土産ありがとう。」と大変喜ばれました。今頃天国で思い出しておられるかもしれません。

 (左:2014年9月26日 大相撲秋場所にご一緒しました。寺尾と遠藤のファンでした。)
  (右 :2012年 澤本さんのマンションに呼ばれ夫婦で楽しい時間を過ごさせてもらいました。)

 澤本さんのご長男の嘉光さんは有名な電通のクリエイティブ・ディレクターで、ご次男の嘉正さんは三菱重工
環境装置部門の技術幹部としてご活躍中です。

 今でも苦笑いしながら、ゆっくりと冗談含めて話す澤本さんの姿を思い浮かべ、ご一緒して指導して頂いた時代を
ありがたく想い出しております。
 
 改めて澤本さんのご冥福をお祈りするとともに、奥様、ご子息のご健勝をお祈りして偲ぶ言葉と致します。伊藤一郎