皆様からのお便り 『イラクハルサ発電所と私 「ハルサと春沙」』 緒続 真人様


長機会5月号の表紙はイラクハルサ発電所でした。ハルサ出張中に生まれた娘にこのプラントの名前をつけた緒続さん、すぐに下記の原稿を送ってく
れました。プラントを建設する。それは人生の一時期の思い出を残すだけでなく、その家族の中にもプラントは生き続けているようです。「牧浦記」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 イラクハルサ発電所と私 「ハルサと春沙」                      緒続 真人

1.はじめに

イラクハルサ発電所は度重なる戦過により壊滅的な被害を被ったものの、4号ユニット及び1号ユニットは2017年2022年相次いで
リハビリされ蘇った。この発電所が消え去ることなく、今もかの地でしっかり運転されているということに、現地建設に関わった
一人としてい感慨を覚えると共に、リハビリに携わった方々に対し感謝の念に耐えない。

私にとってのハルサは、ここで人生の転機となる経験をし、その後の大きな道標となった場所でもあったのだ。以下にこのことを
述べていたい。


2.長船からイラクハルサの現地調査依頼

1989年4月、私はクウェートアズールの長船建設現地所長として、350MW級ボイラ8基建設の取り纏めを行っていた。内外の皆様
にご心おかけしたハイジャック遭遇事件から一年経過した頃であった。そこに長船からの依頼が伝達された。それは隣国イラク
にあるハルサ電所の現地調査である。
イラクハルサ発電所は三菱重工の総力を結集し取り組んだ一大プロジェクトであり、1980年3月に成功裏のうちに完成し引渡してい
た。も、現地工事に携わり、この完成の年まで現地に滞在していた。ところが完成半年後の9月イラクの先制攻撃によりイラン・
イラク戦が勃発した。 その直後よりイラクハルサ発電所上空にもイラン軍機が飛来し空襲警戒体制がとられるという緊迫の事態と
なった。

イラン・イラク戦争は、その後8年間にも及び1988年8月に終結したが、この間の情報は乏しく、発電所の状況は把握されないまま
推移していた。発電所は被害を被っているはずであり、復旧支援の手を差し伸べるときがきたのだ。そこで、ハルサ発電所まで陸路
数時間の地クウェートに滞在し、ハルサ発電所建設にも関わったことがある私に声が掛かったのである。
状況の把握が目的であり、その後修復のため詳細調査が行われる計画であった。かくして同年6月初旬、ボイラ兼補機据付指導員1名
を同行しアズール事務所ドライバーの運転する乗用車1台に乗り込み、イラクハルサに向かう。ほぼ10年ぶりの里帰りともなる旅で
もあった。イラクハルサは私にとって単に懐かしいという感傷に浸るだけの場所ではなかった。これを語るには次に記載する通り、
この10年前に溯ることになる。

3.火力プラント建設部への異動そしてイラクハルサへの出張

1978年1月、私は造船現場から火力プラント建設部への異動を打診され、これを受けた。造船業界を襲った不況の煽りからであった。
異動先の建設課にて座学や現場でのOJTを経るに連れ、これまで造船現場で培ってきた技術や経験を活かせる場所はどこにもないよう
に思われ、人格をも否定された様な不安と孤独感に苛まれる日々が続いた。そこにイラクハルサへの長期出張の話があった。「何か」
を変えたい、との思いと、異動後初の海外出張でもあり、心躍る気持ちでこの日を待った。

1979年5月、イラク・バグダッド直行JAL便が飛び立つ福岡空港には、私を見送る妻の姿があった。
その腕には、初めて見る飛行機にはしゃぐ2の長女が抱かれ、大きくなったお腹の中には5か月後に出産を控える子供がいた。
イラクハルキャンプに到着し、大勢の仲間から暖かい歓迎を受けた。そこに集う人々は社運をかけたプロジェクトに選ばれ派遣さ
たという誇り、そして多の困難をこの手でほぼ乗り越えたという自信に満ち溢れ、皆輝いていた。「これぞ、男の仕事ではない
か」その日以来これまでのモヤモヤした気持ちは嘘のように消失し、これまで悩んできたことすら忘れてしまうようになっていた。

        現場で共に働いた吉田正勝さん(第一工作部)が描いたイラクハルサ


専属の日本人医師、調理師まで抱えたまさに長船部隊ともいえる大きな組織の中で本来の明るさを取り戻すことが出来た。以来、与
れた仕事に没頭し、生き生きとした日々を過ごすことができた。 その中で、新しい職場の上司や関係者も私のことを見ていてく
れ、その計らいがあって今回の派遣となったことを理解し胸が熱くなった。

瞬く間に過ぎ、10月を迎えた。そこに妻の第2子出産、福岡空港で見送った、あのとき、お腹にいた子供が誕生、それも女の子との
入った。女の誕生である。本来であれば、妻をねぎらい、その喜びを分かち合うところ、これも長期出張を生業とするものの
宿命と素直に受け止めることが出来るようになっていた
留守宅を守る妻の寂しさにも心を配り感謝の気持ちを伝えるべく、ハルサ現地のそばにある町、アシャール(バスラ市)の電話局に
に赴き言葉をかけた。その中で、出たのが、名前はどうするか、というものだった。
私は、即座にハルサに因んで「春沙」ではどうか、と提案した。妻も、名前のもつ美しい響きに賛同しこう決まった。 イラクハルサ
所は、シャトルアラブ河の河口に広がるナツメ椰子の広大な林を切り開いて築かれた。 シャトルアラブ河の源流は遥か紀元前
3500年も遡るメソポタミア文明発祥のチグリス・ユーフラティス河である。その悠久の流れはこの世の些細な出来事を何事もなかっ
たように静かに深く飲み込み、大いなる未来へと続く。

この地に派遣され、人の生き様を考えた。人生の転機ともいえる体験をし、そのとき生まれた娘に「ハルサ(春沙)」と名付けた。
イラクハルサ――それは単なる地名を超え、私の心の中で特別な意味を持つ場所となった。

4.イラクハルサへの移動

       クウェートアズールからイラクハルサへ

クウェートアズールからイラクハルサへは陸路約150キロ。広大で殺風景な
高速道路延々と続く。クウェート/イラク国境通過にはイラン・イラク戦争
終結後の混乱の影響か、混雑し数時間を要した。バスラの町に入ると直ぐに
シャトルアラブ河の流れが見え始めた。ナツメ椰子の広大な林の奥にハルサ発
電所の4基の煙突が現れた。

「帰ってきたぞ、私のハルサ」、身震いするような感動が襲った。ハルサ発電
所は、部ユニットは停止し、また破壊部分を修理し、出力を制限して運転さ
れていた。
本格修理の必要があり、そのために保修、運転関係者へのインタビューと打合
を行ハルサ発電所を後にした。 この半年後の1989年12月私はクウェート
アズールより最終帰国し、その翌年、建設課長を拝命した。その後のイラクは、
またしての乱により、改修工事という次のステップに進めないままになって
しまった。




5.幾多の戦過と復興

翌1990年4月、イラクは突如クウェートに侵攻し駐留、湾岸危機が始まった。その時、クウェートに滞在していた非クウェート人多
を人質としイラクに送った。当関係者24名も含まれていた。クウェートに越境したイラク軍は国連の退去勧告を無視し続けた
め遂には翌年の1月、多国籍軍の空爆が実行され湾岸戦争が始まった。

 イラク発電所で仲間と再会(後ろ左から二番目が私)1989年6月9日撮影

イラクから反撃のミサイルは米軍が駐留するサウジにま
及び、当所が建設し稼働中のクラヤ発電所1号/2号ユ
ットも標的になる可能性が現実味をおびてきた。隣接
地では3号/4号ユニット建設中であり、そこで従事する
船関係者全員をサウジ西海岸のジェッダに陸路横断し
避難させるという大オペレーションも決行された。 長船
関係者が絡むこれらの危機管理対応にあたり、建設課長
であった私は、その中心の一人となり奔走した。

1か月余りで湾岸戦争は終結するも、イラクでのサダム・
フセイン政権は存続した。
そして10年後の2001年9月、「米国同時多発テロ事件
端を発し、アメリカが主導する有志連合国が、2003年
3月に攻撃を加え、イラク戦争が勃発、圧倒的な軍事力の
差により、遂にはイラクの命運は尽きた。


ハルサ発電所は度重なる戦過による被害が危惧されたも
の、戦後のイラク国内は混乱を極め、全ての情報は途
絶えた。その後、状況を見極めながら当所による現地調
査と交渉が行われ、そして2017年及び2022年の2回にわたりリハビリ工事が行われた。
結果、修復不可能な2号3号ユニットは撤去、負荷制限のなか細々と運転を続けていた1号4号ユニットは完全に修復され兩ユニット共
200MWのフル出力を取り戻し蘇った。


イラクの政情・治安はいまだに劣悪で、復興の道のりはまだ遠い。その中で、社
インフラの基礎となる電力の復旧は喫緊の課題である。ハルサ発電所のリハビリ
は、その大きな一歩となる。リハビリされたハルサ発電所がその新しい寿命の尽き
るまで精一杯この国の為に活躍してくれることだろう。


6.結び

10月の次女春沙の誕生日がくるたびに、あの頃のことに思いを馳せ、往時を偲ぶ。
イラクハルサに因んで名付けた娘・春沙も今や2児の母。

時は巡り巡っても、あのシャトルアラブ河の静かにして深い流れは全てを飲み込み
悠久の世界に流れて行く。その中にあって、この地であのとき体験した出来事など
は取るに足らないものではあろうが、私にとってはかけがえのない思い出である。

その「思い出の一枚」のフレームのなかには、緑豊にして広大たるナツメ椰子の林
シャトルアラブ河の光る水面、そして私たちの苦労の結晶である発電所から煙を
げて、そそり立つ煙突が納まっている。

ハルサは、私の心の中でいつまでも輝き続けているのだ。
                                                                                        

      出典:“Short Description of HARTHA Power Station(MHI)”表紙より

                                                                以上