皆様からのお便り 『供養の仕方』 牧浦 秀治様
先月、増田信行さんの追悼文を書いていたら、何度か出遭った別れを思い出し、そのことを書いてみました。 「牧浦記」 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
『供養の仕方』 2025年 8月 牧浦秀治
父は63歳で亡くなった。その後、新聞の訃報の欄に目が行くようになった。掲載されている方が若いと父は寿命だった
と納得し、父よ りもうんと歳取っていると、あの時なぜ病院に連れて行かなかったのだろうと後悔する。
突然、父のことを思い出すことがある。煙草の煙が漂ってきた時、いつも飲んでいた焼酎の銘柄を目にした時。 時間は
癒しの神様。悲しみは日々に追いやられて、苦しんでいた父の姿はもう消えてしまい、時間フィルターの上に残ってい
る姿は元気の時のままだ。「父ちゃん、息子は貴方より7歳超えて70歳」。元気な姿を脈絡もなく思い出す。父の声も
聞こえてくる。これが私の父への供養だ。
平成の長崎に居た時の話。
長与から朝一番バスに乗り旭大橋で降りて六ビルまで歩いた。帰りも同じように歩いて帰った。三菱電機(現TMEIC)
の前は、現在は駐車場になり長崎湾が道路から見えるが、当時は倉庫が建っていた。建物と建物の隙間を抜けて岸壁を
打つ波の音が聞こえてくる。この倉庫を通りすぎ三菱電機の工場の所で、電柱の根元に花が手向け られていた。
生花が数年経つと造花に代わった。 夏の夕方だった。水の浦門を出ると、夕陽に染まった長崎湾の漣(さざなみ)が岸
に繋がれたボートの底に潜って、ボートがゆっくりと 揺れている。
花が手向けてある電柱 の周りに茶髪の男女6,7名がたむろしている。日頃の負けん気や陽気さも忘れて、手を合わせ頭
を垂 れている。 翌朝、そこを通るとビ ールとたばこがお供えされていた。それから3年間出張に行って長崎に戻って
きた七夕の日だった。またあの若者たちが夏の夕暮れに電柱の所に集まっていた。百合の香り がして、電柱の周りには
またあの3年前と同じようにビールとたばこが供えてあった。
最近、聞いた話。
その女性の会社の先輩は病気で通院していた。調子がいいので一緒に食事しないと誘われ他の友達と三名で食事した。
白い肌に白いネックレス、面と向かってみる先輩のお顔は少し瘦せたなぁと思ったがその不安も笑顔にかき消された。
自分との出逢いを先輩は詳細まで覚えていてくれていた。
その後も会社に出たりで出なかったりしていた先輩、その訃報の一報が社内で回ってきた。まだ40代後半、その人のご
主人からお通夜や告別式は内輪だけでやります、との連 絡。通夜にお参りしたいと思っていたら子供が熱を出し出か
けられなかった。
感謝の気持ちを返事の返って来ない先輩の携帯にメールをしたら、数日経って来ないはずの彼女の携帯から返信があ
った。妻を失った悲しみと頂いた亡妻へのメールへのご主人の感謝の言葉が綴られていた。
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キュウリの馬とナスの牛 |
8月は亡くなった人と会話できる月。 線香から流れ出る煙の行先
は、黄泉の国と祖母が言っていた。
黄泉の国から足の速いキュウリの馬で我が家にやってきて、足の
遅い茄子の牛で身内に後ろ髪を引かれるように帰っていく。
長崎では花火を打ち上げて迎え、精霊船の横で鐘を叩き 、爆竹を鳴らして送る。迎え方も送り方にも違いがある。
久しぶりに我が家に帰ってきた亡き人をもてなす。人それぞれに
供養の仕方がある。
以上