思い出 

幸町工場の思い出  New!   

 〇相川賢太郎様

長機会ホームページでは3月号で工場再編に伴う幸町工場閉鎖の重工ニュースをお伝えし、4月号ではMET過給機の話、5月号では終戦後仕事のない
時代機関車修理までした話、そして7月号では幸工に勤務された海田秋男様の「思い出」等関連記事を掲載しました。今回はさらにさかのぼって
戦時中の学徒動員により幸工で勤務された相川賢太郎様の経験談です。奥様との出会いもこの幸工勤務だったそうです。(事務局)


2017.7.12. 相川賢太郎

長機会ホームページ7月号の、海田秋男さんの「思い出の記事」で、幸町工場の撤去を知り、原子爆弾を受けた頃の幸町工場の思い出を書き遺したくなりました。海田さんは昭和37年入社。私は昭和26年入社ですが話は、昭和20年・学徒動員の頃のことです。どなたか思い出して呉れる人が健在ではないでしょうか?

昭和20年(1945年)8月9日の米空軍の原子爆弾・爆撃により幸町工場は壊滅し、数百人?が即死しました。 私は昭和19年5月31日から、原爆投下の3週間前まで1年余り学徒動員を受けていた長崎中学5年生として、ここで丁度1年間一工員として働いていました。飽の浦で2週間、ハンマー・
ヤスリ・タガネ・スリアワセの訓練を受けた後、幸町タービン工場に配属されていたのです。

月給20円を三菱重工は長崎中学に支払い、長崎中学は授業料5円を差し引き、残り15円/月を「学徒号・戦闘機基金」として国に献金していました。
つまり学生は1年余、三菱重工の工員として無給で働きました。 2交替制で、朝7時から午後4時までの早出と、午後4時から夜12時までの遅出の、1週間毎交替制でした。 私の仕事は、海防艦のタービン減速装置の組み立てでした。夜の鉄の冷たさを忘れません。体の弱い人はクレーン操縦でした。
市立高女の動員学徒はタービンのブレードの植え込みや、ローターの動的バランス等をして、やや高級な仕事でした。

正規工員の従業員達は殆ど戦地に召集され、僅かに工場に残っているのは、主として、徴兵検査不合格の病弱者で、動員学徒に作業の指導をしま
した。優秀な技術者の中には、特に兵役を免除され技術指導に当たっている人も希にあり、戦場を免れ命拾いをしていました。

このような病弱工員や指導員には、昼食事には「米」の弁当が支給されましたが、動員学徒には、水だけでした。
近くで働いていた諫早刑務所囚人や、オランダ人捕虜にもメタボリン(ビタミンB)一粒入りの弁当が与えられ、又、馬車馬にも藁(カイバ)が支給
されていましたが、動員学徒には、1年間、遂に1度も昼飯は支給されませんでした。
「馬はよかね!!」とつぶやきながら、家から封筒に入れて持ってきた炒り大豆を齧っては水を飲んだものです。 「欲しがりません。勝つまでは
!!」の標語が、子供にも滲みこんでいました。

動員学徒の中には、当時の長船の島本副所長や、屋代副所長・宮崎所長付・肥塚与四郎工作部長・森米次郎事務部長・田中七平部長等、長崎造船所
幹部の息子達も何人も入っていたのですから、長船は特に意地悪したのではなく、海軍監督官や食料庁の規則だったのでしょう。 米は各家庭に配給されており、それは殆ど大豆か、芋等の代用食であった為に弁当にはならず、炒り大豆にして各自、紙封筒に入れて、弁当代わりに持参したもので、昼食は大豆と水だけでした。

昭和20年3月31日中学を卒業しましたが工場動員は続けられ,7月下旬に漸く動員解除されて、入試に合格していた熊本の高校に遅れて入学しま
した。
しかし入学3週間後の8月9日、長崎に原爆が投下されたのです。
私は、學校指示により家族救助の為、原爆投下3日後の昭和20年8月12日午後2時頃、熊本より汽車で長崎に入市しました。一面の廃墟でした。爆心地・長崎医大を通って幸町工場に差し掛かると、懐かしの幸町工場も廃墟と化し、未だチョロチョロと燃え続けながら遺体は散見されましたが、人の気配は全くありませんでした。投下後に被爆地に入って、放射能により倒れた人が続出した為、被爆地への立ち入り禁止となっていたのです。この前まで一緒に働いていた学友を偲びながら、近づくことも出来ませんでした。

あの狭い浦上の谷間に、74,000人の人が倒れている惨状を想像して下さい。
私は熊本の学校へ速報の葉書に、『この新型爆弾は人類破滅の兇器となるかもしれぬ』と報告していますが、「戦争に負ける」と言う発想は全くありませんでした。
『2発目の爆弾を投下するから、市民は退避せよ』と言うビラが米軍機より撒かれたので、私は学校へのはがきを出して直ぐ徒歩で大村へ逃げま
した。
「原子爆弾だったらしい」という噂が流れました。
そして3日後の8月15日、終戦の勅語によって、4年間続いた大東亜戦争は終わりました。 無事に生き残った私はその後6年の学業を終わって、再び三菱長崎造船所に入社していました。

それから数十年が経ち、平成6年に学徒動員50周年を開くこととなり、当時の動員学徒・約300人がいそいそと集まりましたが、昔の長崎中学生・長崎市立女学生は、今はすっかり爺さん、婆さんでした。 学徒動員以来50年振りの再会でしたが、結婚前の旧姓で男性から声を掛けられた女性は
「さては気があったのか!!」と、思いがけぬ大喜びでした。 当時は「男女7歳にして席を同じうせず」の時代で、中学生と女学生は同じ組に動員されていても、一切口を利かず、挨拶も禁じられていたのです。 然し胸に死体鑑別票をつけていたので、気に入った人の名前と顔は、50年も覚えていたようです。

動員50周年と55周年の2回、会合を開きましたが、幸い第1回目は花田公行君、第2回目は冨永明君が長崎造船所・所長でしたので、特にお願いして祝辞を頂き、昼食にカレーライスを出して貰った所、「三菱から始めて昼飯が出たぞ!!」と一同大喜びでした。  食い物の恨みは深いと言いますが、50年前の欠食を皆よく覚えていて、感激して涙を流している人も居ました。オランダ人俘虜にはメタボリン入りの米飯を食わせながら、自分たちは炒り大豆を齧ったことも、今となっては誇らしげでした。

然し、この日全国から集った300人は原爆に生き残った幸運な人達で、不運にも爆死した友人達は長崎中学42人(医専進学者12人含む)、市立高女98人合計140人に及びます。比較的少ないのは、此の日工場の一部を戸町トンネル工場に移動中だったからと聞いています。

工場での行事の終わりに全員、慰霊碑の前に集まり慰霊祭を行いました。
『海原千里の潮高く・・』(長崎中学校・校歌)
『桜咲く国日出る御国・・』(市立女学校・校歌)
『花も蕾の若桜五尺の命引っさげて・・」(学徒動員の歌)
を歌って、涙ながらに解散しました。
あの友の名を掘り込んだ慰霊碑はどうなるのかな?


私は原爆投下の3週間前に、動員解除されて、熊本の高校に入学した為に命拾いしました。幸町工場で工員として親しんだ蒸気タービンを学ぶために工学部へ進み、6年を経て再び長崎造船所幸町工場に舞い戻って来ました。原爆投下全壊以来6年も経過して幸町工場は昔の姿に復旧され、学徒動員時代の指導員の人達・橋本・木下・長谷川技師.本多工師・久保・東山技手・福島・岩見・米屋・山本組長等々思いがけぬ再会は、「よう帰って来たなあ!!」と迎えられて嬉しかったし、入社後の私の仕事は、蒸気タービンの設計であり、ほぼ学徒動員の延長線上にあり懐かしかった。
家内は、かって市立高女4年生として同じ幸町工場に学徒動員されて働き、タービンの動的バランス係であり、7年振りに再会。話したことは無かったが、7年昔の顔には見覚えあり、原爆投下直前に私と同様、進学の為に動員解除となり命拾いをした-人である。 7年ぶりに縁あって以来今日
まで、共に幸町育ちとして卒寿を迎えんとしている。とうとう長崎造船所37年、本社30年と合計67年勤務して来たことになり感慨無量である。

ここに原爆死した市立高女動員学徒・須田美津子さん(15歳)を悼む、お父さん(長崎造船所資材部職員)の絶唱があります。 遺体は発見されていません。静かに読んで下さい。

「長歌」 長崎市立高女合同慰霊祭の折よめる               須田 巖

   学徒とふ誇り匂はし  眉あげて職場職場に  いそしみし事や空しき
   励ませしことぞ甲斐なし  においづる花のかんばせ  あやなせる襷千切れて
   ぬば玉の黒髪すらも  ちりじりに哀れをとめて  むくろなすああ学徒群
   いてる日の8月9日  夏雲の白雲がくり  飛行機の爆音ありと
   打ち仰ぐ瞳射すくめ  ピカリとし光る閃光  すわこそと面うち伏せ
   諸手もて塞げる耳を  圧し揺りてグワンと轟音  渦巻来て起こる旋風
   一瞬に機構は崩れ  生けるもの息の根止めて  ありとある物ぞ焼けつつ
   死の都長崎あわれ
   くねくねの鉄柱蔭ゆ   鉄板のくすぽる下ゆ  すさまじき瓦礫掻き除け
   打ち嵩むむくろが中ゆ  救い出しあまた女生徒  次々に果てて行きたる
   はらからの看護受けつつ  こと切れし人もありけむ  さらに又行衛も知れず
   運ばれて命おわりし  子もあらむ吾が子の如くに
   うら若く花の蕾の  か弱なるをみな子ゆえに  いまはなる様ぞ想ほゆ
   絶えだえの息をあつめて声かきり母をよびけむ  父われを求めやしけむ
   咽喉涸れて水や欲りつつ  かにかくにこと切れけむと  親心思ひ切なく
   不欄さや限り知られず
   今日ぞその合同慰霊祭   在りし日の子の学校に   華やきて並ぶ子見れば
   相睦み語らう見れば  いずべにも交じらぬ吾が子の  影追いて泪湧きいづ
   分かちたる同じき運命  その父母の嘆きも吾に移し歎くも


【反歌】
   なきがらも見せずおわりし娘ゆえ心の隅にあきらめ難し
   いずこから生きてひょっこり来るごとき錯覚に居て今日も暮れたる
   寂しがりの娘なりしが梟啼くこの月の夜を何処に泣くらむ
                                      以上