皆様からのお便り 2

〇嘘のような本当の話 法隆寺の疎開  原徳三様   New!

法隆寺の疎開?びっくりするような話です。この記事をご覧になって法隆寺の疎開に関心を持たれた方は、都立中央図書館の3階にある建築部門の
書架に膨大な「工事報告書」が並んでいるそうですからご覧になっては如何ですか。法隆寺の解体に関する写真なども閲覧・複写可能だということ
です。(事務局A.T.)

 
平成14年8月に日経新聞の「文化」に投稿したので、ご存じの方も多いのですが、「長機会」に改めてご披露致します。

『嘘のような本当の話』

 日本中で知らぬ人はない「法隆寺」は、日本最古の木造建築であり千四百年前に聖徳太子によって建立されたものと信じられています。特に国宝
の金堂や五重塔は有名で、知らない人はありません。

 その五重塔が、戦争の末期に法隆寺から姿を消していたこと、そして東ヘ3キロほど離れた安堵村のある豪農の米蔵に疎開していたこと、そんな
話はても信じられないと思います。私自身、そのような疎開の話を聞いたとき、そんな馬鹿な話と思ったのです。空襲を避けての仏像や仏画の疎開
なら考えられますが、高さ34メートルのもある巨大な五重塔という建物が疎開するなど全く有り得ないと思いました。法隆寺を訪ねて坊さんに聞
きましたが、 「そんな話を聞いたこともない」という返事でした。「小学館」が法隆寺の詳細にわたる立派な本を刊行しています。 1400年間の
年表のなかにも、疎開のことなど全く書いてないのです。最初は全く信じなかった私自身も、昭和9年、文部省が「法隆寺の昭和大修理」を計画したことを知りました。その大修理とは、建物全体を解体して、傷んだ箇所を修理し、学術的な調査研究を行うというものでした。日本の永い歴史のなか
では、何回も法隆寺の修理は行われておりました。そのなかのひとつに、徳川家康が大阪城内にある莫大な黄金を減らさねばならぬと、日本各地の
寺社の修復を亡き太閤の慰霊のためにと豊臣家に勧めました。当然法隆寺の修復もそのなかに含められましたが、徳川方の意図を察知した大坂方は
巨額な出費を避けるために、檜材の代わりに松材を使ったりしたことが、反って建物を傷めることになった例もありました。明治期の大修理も真っ
当に行われ、それを受け継いで昭和になって当時の文部省は大修理を計画したのです。

 実際に工事が開始されたのは、戦争が始まってから一か月後の昭和17年1月8日。塔全体を覆う小屋掛けをしてから解体作業が始まり、塔全体
の解体と、学術的調査が終わったのは昭和19年の秋。そのころには空襲の恐れが多大となっており、万一に備えて、解体し終わった五重塔を安全
な場所に疎開させようとしたのです。瓦は疎開する必要はないが、木材部の部分だけでも約百トンあり、特に心柱は直径70センチ、長さ30メー
トルもあって、二か所で継いであったので一本10メートルのものが最重量物でした。戦時中、男子は軍隊か工場に動員されており、老年の男女と
中学生の子供たちが、大八車で延べ500台、3キロ東の疎開先に運んだのです。 トラックもクレーンもない、ヘルメットもない時代です。
全ては彼等の手に依ってなされたのです。私は境内から疎開先までの道を歩いてみました。当時は石ころだらけの凸凹道であったに違いないし、
その道を鉄輪の大八車で運ぶ苦労は現代人の想像を超えるものがあったでしよう。若しも坂道があったら大変な障害になるので、私は実際に全行程
を歩いて確かめてみましたが、傾斜している道は殆どなかったのは幸いでした。

 後で知って驚いたことはそれに要した18万円という費用です。戦争が終わるまでの日本では100円札を見たことのない人は幾らでもいたの
です。1000円あれば木造の家が建った当時の180000円は大金です。その資金は岩崎小倆太社長が自分で支払っていたのです。社長は何も書かず
、誰にも語らず、ただ貴重な文化財を、最悪の危機に備えて保護し、後世に残さねばならぬと考え実行したのです。
 幸いにして、奈良・京都・日光・鎌倉は空襲から免れました。そのことから、法隆寺の疎開など、「骨折り損のくたびれ儲けだった」という人も
います。それは結果を知ってから、どんな馬鹿でも言える「後講釈」というものです。戦争が終わってから、部材は元の法隆寺に戻されました。
そして工事が完了して落慶法要が執り行われたのは、昭和27年5月18日でした。
 信じられないような話ですが、「法隆寺国宝保存工事報告書」のなかに、解体時の写真とともにキチンと詳細が記されています。