皆様からのお便り 1

1)  左手           松永巖 様     New!


小学校に上がる前、六歳の或る日、四歳年下の甥と乳母車で遊んでいた。型は古いか藤製の新品であった。これに自分が乗って自分で動かす方法は
無いかと考えた。
農家である実家には、広い三和上(たたき)の作業場があり、此処へ乳母車を運んだ。押手の所に縄を結んで、その縄を離れた所の何かに掛け、
乗って引っ張れば動く様にした。乗らないで、空運転で試して見たら旨く動いた。
「よしっ!」と思って、甥は乗せずに先ず自分だけ乗って、縄を引っ張った。動いた!
しかし二、三歩進んで止った。「可笑しいなあ」と思い、力一杯引っ張った。乳母車は引っ張られた方向に倒れた。後で解ったのだが、空運転では
無かったが進む方向がずれて、敷いてあった筵の端に引っ掛かったのであった。
 咄嗟に縄を掴んで無い左手を強く地面に突いた。「痛い!」と思った。立ち上がって倒れた乳母車を起こそうとしたが、左手が効かない。
母やお手伝いが畑から帰って来て昼になった。左手の痛いのは誰にも言わなかった
然し食事の時、茶碗を持ち上げる事が出来ないのを母が見た。そこで一部始終話した。
 母の顔色が変った。食事もそこそこに、余所行きの服装にさせられ、母も手際良く着替え、私の手を引き300m位あるバス停まで走る様に歩いて
行った。10km程離れた長岡市の病院に連れて行く為であった。バスは直ぐ来た。バスは空いて居り、私は入口近くに、二人分の席を取り、悪い左手
を左側の空いた席に、掌を上にして座った。母は私の右側に座って居た。暫く走るほどに人が乗って来た。その中誰かが、私の左手の席を、空席と
見たのと、バランスを崩し、私の左手の上に「ドスン!」と腰を下ろした。
「ギャッ!」と言う様な声を出したのを憶えて居る。
腰掛けた中年の女の人は謝って他の席に移った。又暫く走って長岡市内に入る頃、私が左手でバス入口のポールに掴まって居るのを、車掌が見付け
て母に告げた。バスの会社は伯父の経営する会社で、車掌、運転手は殆ど顔馴染であったから、運転手もバスを停めて、暫し私の手を見て居た。
痛みは始めの頃より随分治まって居た。然し母は、此処まで来たからには病院には行くと言って、最寄りの停留所で皆さんに挨拶をして降りた。
 子供だったので良く解らないが、多分X線を撮られたのだと思う。医者は、バスの中で腰掛けられた時、脱臼したのが復元したのでは無いかと
言い、特別な事はしないで家に帰った。
 しかしこの左手は今でも酷寒、酷暑時に不快な痛みがあるし、右手では出来る片手懸垂が、握力が半分位の左手では出来ない。
ゴルフや剣道など左手を使うスポーツをやって来たが、強力なリストバンドをするなどショックの痛みに対応して来た。.その後、精密に左右X線
写真を比較すると、尺骨と橈骨の間隔が、左の方が広いそうである。六歳の時の怪我が、不完全に治療した結果であろう。
曽て汀子(注1)先生が左手に怪我なされた時
  左手と 笑えぬ主宰 山笑う    朔風
と言う句を作り、社句会で汀子、廣太郎(注2)両先生にお取り頂いた。汀子先生が左手の使えないご不便を、講演でお話になった事を思い出す。
   
   筆者注:”山笑ふ”は”春山淡治にして笑うが如し”という古辞からとった俳句の季題で、春山の情景を指す。当時汀子師が左手を怪我されて
       居る時詠んだ句です。

 右利きでも、左手の大切さは、本件以来数十年拳々服膺(けんけんふくよう)(注3)して居る所である。      以上

事務局注:
この文章は平成30年12月の「ホトトギス」に掲載されたものです。
聞きなれない名前と言葉が出てきましたので、事務局でふり仮名と注を付けさせていただきました(A.T.)

注1.汀子 (ていこ)       俳人稲畑汀子のこと。高浜虚子の孫。『ホトトギス』名誉主宰、日本伝統俳句協会会長。
注2.廣太郎(こうたろう)     俳人稲畑廣太郎。稲畑汀子の息子。
注3.朔風             松永巖様の俳人としての雅号
注4.拳々服膺(けんけんふくよう) 常に心中に銘記し,忘れないこと(三省堂大辞林)