【特別寄稿】 皆様からのお便り 「台湾電力大林発電所1,2号ボイラの思い出」  末光 進様

 長船で長年ご活躍された末光様よりお便りを頂きました。今も長崎を拠点として地域振興のため様々な活動をされていますが、
今回は大型ボイラーの海外での受注活動での経験を特別寄稿頂きました。【伊藤】

 「台湾電力大林発電所1,2号ボイラの思い出」 末光 進

 国際入札で受注した長船初の大容量ボイラの第一回技術打合せがNYで開催されました。長船の参加メンバーは、ボイラ設計
グループ上村係長、光畑建築技師、山中計装電気技師、それにプラント設計の私の4人でした。この記事は数少ない変色した
写真から思い起こしたものです。
 このオーダーのコンサルタント会社は、アメリカにあるG&H社でした。この第一回技術打合せが、ニューヨークにある
マジソンスクェアーガーデン前のビルにあった同社事務所でありました。
 泊まったホテルは、パークアベニューの47通りにあった米国三菱商事事務所に近いシェルトンタワーホテルでした。名前の
ように細く高い建物で、この付近はオフィス街のため、出勤時間の通りには洗練されたエリートの雰囲気が漂いました。
 出張生活では節約を心がけました。1967年頃の1ドル360円の時代で、しかも出張手当には限りがあり赤字が目に
見えていました。光畑技師と相部屋にして、近くのドラッグストアから牛乳やパンとりんごを購入して朝食としました。値段が
日本より安い1ドル位に驚きながら、牛乳とりんごを風呂敷に包んで窓の外に縛りつけました。室内はシャツ姿でも外は真冬の
零下です。冷えたりんごと牛乳にパンだけの朝食が、寝覚めの朝を満喫させてくれました。
 仕様書で最も意見が分かれたのが、引合仕様書通りにオファするか否かでした。仕様書では全てアメリカ規格の適用を要求
して、その上ボイラチューブやパイプなどには製造方法まで細かく記載していました。
 最終的に「修正事項無し」、即ち仕様書の通りで応札しました。国際入札では引合仕様書の内容に修正があると、評価金額
を加算した応札金額で比較され、また、入札資格外に落とされる可能性も予想されました。
 当時の国内では、アメリカ規格のものも少なく、記載された製造方法も出来ませんでした。長崎造船所機械総括部の総力を
上げて注文を取ろうという方針に、私たちも目をつぶって「仕様無修正」にしました。
 所長室から、「注文が取れたら見積り作業の全員と、富貴楼で打上げをするぞ」と鼓舞された私たちは、休日も夏休みも返上
して設計と見積りに没頭しました。「安過ぎないか」という思いにも、執拗にコスト低減が要求されました。
 最終的にコストで応札した金額は、開札一番札となって落札したのです。その結果、所長・副所長と関係者一同は、富貴楼
で労を癒しました。
 ちなみに、技術提携の親会社コンバッション・エンジニアリングの入札金額は、三菱の2倍だったらしいのです。
台湾電力公司から「三菱の金額は一基分か、二基分かと確かめられた」と聞き、我々の見通しのなさに苦笑したものでした。
 そうは言っても「アメリカ製品など使えば、お金が幾らかかるか判らないし、納期の確保もできないだろう」など、設計開始
に向けて仕様問題の余波が続きました。
 第一回の技術打合せ当たって日本規格の適用を認めてもらうべく、アメリカと日本の規格比較表を用意しました。
 更にコストダウンを図るべく、仕様変更の資料も作成して勇躍乗り込んだ我々に、商事の担当部長の言葉が返って来ました。
「そんなこと通用しないよ。国際入札だから受注決定してからスペックの変更などすればキャンセルですよ!」と、打合せの
概要を説明した私たちに言い放ちました。
 G&H社のマネージャーが会議の冒頭、「互いに協力して良い仕事を残そう。よろしく」と言った言葉に、「砕けようとも
当ろう」という気持ちになりました。
 そのときマネージャーから「スエミツの話し方がきれいだ」と言われ、流暢でないと自覚していた私には、面はゆくも体から
力みが消えました。終戦直後に英語教師をしていたという上村係長が、「何で末光のがいいのか判らない」と言われました。
確かに言われる通りでしたが、通じることでよいと思いました。
 打合せスケジュールが決り、G&Hのメンバー4人が参加して昼食のテーブルを囲みました。食事をしながらプロジェクト・
エンジニアのケンプラー氏が、「私は3年前までスペインのマドリッドにいた。そのときに三菱商事に頼んでキャノンのカメラを日本から持ってきてもらったことがある」と、スペインの出来事を話し始めました。話の中で、そのカメラはスペインへ私が
持参したものだと分かりました。
 当時の津田原動機管理部長のかばん持ちとして、初めて海外出張したときです。スイスやドイツの税関から税金をかけると
言われたり、入国係官から「日本の切手をくれないか」など、トランジットでも持ち込み不可という関門を潜り抜けた末、
誰の手に渡ったのか知りませんでした。
 同席していたG&Hのメンバーから「奇跡だ。世界はせまい・・」などの声が上がり、緊張していたテーブルが一変しました。
テーブルは旧知の仲間だったように会話が弾み、特にケンプラー氏がこの出会いに感激しました。
 光畑技師がデザートに注文したジャンボアイスクリームが想像を超える大きさっだたので、顔をしかめて「うぅ~・・・」
声を上げた光畑技師を慰めるように、アメリカ人たち全員が「予想もしない幸運をコーハタに神が運んできた・・・」と言って、
笑いと拍手で会議の門出を祝福しました。このカメラが仕事の女神として、打合せの歯車を回すことになろうとは予想もませんでした。
 午後からの会議で設計・製作に日本規格を使いたいと申し出ました。規格の比較説明や実績データに、ケンプラー氏は
一つ一つ確認して変更を承認してくれました。
 その他の設計の提案にも全て同意してくれました。2週間に及んだ打合せは、機器の仕様や設計の確認、ボイラ建屋配置や
制御装置の内容など、当方に懸案を残さず終了することが出来ました。
 この仕事では、派遣されてきた台湾電力の技術者の研修がありました。約一ヶ月にわたり6名の研修生を献身的に指導した
のは、プラント設計の駒場方輝技師でした。帰国後も彼らからの感謝と懐かしむ言葉が何年も寄せられ続きました。
これらの研修生は運転や保守管理の責任者として、台湾電力を支える技術者として活躍しました。
 このとき研修生から驚かされたことがあります。それは長船の歓迎会の席で、返礼の日本語が流暢なばかりか、昔風の美しい
言葉だったことです。子供の頃によく耳にしていた丁寧語が並びました。戦前に返ったような気分になりました。
 発電所が完成した後のある昼下がり、上村係長が私の机へ寄って来て、「末光君!臼井さんに叱られちゃったよ」
「どうしたんですか」「このオーダーに利益が出て黒字になっている。お前たちはコスト・オファーで利益は無いと
言っただろ。こんなに出たのはお前たちの見積りがいい加減!と言われた」でした。このように黒字化にできたのは、
最初の打合せに出向いてその事情を知っていた上村係長以下の努力の賜物です。
 ふたりでニンマリとしてカメラの出来事を思い出しました。
 三菱商事から見てあり得なかった国際入札の仕様変更を、カメラが超えさせた出来事でした。この事件に水害被災の経験が加わって、力を尽くした後のどんな結果も運命のなせる業と割り切れるようになりました。

    【米国三菱商事にいた叔父吉田正氏が自宅に招いてくれた時。】       最近の写真です。
     前列右から、叔父、その娘真理子氏、筆者
     後方左から、山中技師、上村係長、光畑技師、叔父の奥様

【編集後記】長船ニュース表紙の「航跡」に掲載された記事ご参考までに添付します。(伊藤)

     【末光進様の略歴】  1960年4月三菱重工業(当時 三菱造船)入社。
                発電用ボイラ設計、火力プラント設計を担当。
                1983年2月~1986年1月までメキシコ事務所長(在メキシコ市)。    
                1989年4月~1997年5月  新設のMHIオーシャニクス(株)社長 
                定年後、長崎県産業振興のため広く活動されています。