1945年8月9日の「長崎原爆の日」の思いを梅田様より寄稿頂きました。梅田様はその一か月後に長崎に生を受けられたとの
事で、ご友人やご両親の様々な思いを纏めて頂きましたのでご一読ください。合掌。(伊藤)
8月9日に思うこと
梅田和子
1945年8月9日11時2分、長崎市に原子爆弾が投下され、一瞬にして一般市民74,000名余りの命が奪われました。
私が生まれたのは、原爆投下からほぼひと月後の1945年9月の初めです。ですから、私には被爆の記憶と言えるものは
ありません。私はABCC(原爆傷害調査委員会:Atomic Bomb Casualty Commission)に小学生のとき、年に一度
通いました。中学になると「兵児帯一枚」での写真撮影がさすがに恥ずかしく、母に頼んで通うのを断ってもらいました。
友人の一人は、被爆者手帳を持っていると結婚できなくなるかもしれない、との親の思いから手帳を取ることをしなかった
のですが、本音は心配で、高校卒業までABCCに通わされたと聞きました。また他の友人は婚約した翌日、お母さんが被爆者
手帳をもらいに行かれた、と聞きました。幼・小・中・高で一緒だった友人(12月生まれ)は甲状腺癌・乳癌を発症、
62歳で亡くなりました。彼女が亡くなった後、お母さんが「原爆が投下された日、原爆というものを知らず、疎開しようと、
浦上駅(落下地点から1Kmのところ)に向かった。列車が出なかったので、身重の身体でその夜を駅で明かした。でもその
ことは娘には言えなかった。あなたに初めて話します」と言われました。
高校3年生の時、後輩の2年生(被爆2世)が白血病で亡くなりました。当時、高校の生徒会長をしていた1年後輩の
平野伸人氏は、その時受けたショックが強く、1998年に「高校生平和大使」を立ち上げ、この年は2名が選ばれました。
その後、長崎県以外からも高校生平和大使は選出されるようになり、今年第24代の高校生平和大使は日本全国から過去最大
の35名が選ばれました。この高校生平和大使活動は2017年からノーベル平和賞の候補になっています。
2011年の東日本大震災の津波で起こった福島原子力発電所の事故のあと、多くの人々が被曝のことを非常に心配しました。
高校時代のクラブの先生が「福島と長崎を結ぶ会」を立ち上げられました。東日本大震災の年、福島の女子高生が修学旅行で
長崎に来た時に原爆資料館を見学しました。そのとき語り部をしていたその先生の元に、福島に戻った数人の女生徒から手紙が
来たのです。その手紙には「私たちは結婚できるのでしょうか?」と書かれていたそうです。先生は被爆者の方にその手紙の
返事を書いてもらい、学校に送られました。でもその手紙に反応がなく、心配になった先生は福島の高校を訪ねられました。
すると校長先生の判断で(?)、届いた手紙を生徒に見せることをされていなかったのです。帰崎された先生は女子高生を
励まそうと「福島と長崎を結ぶ会」を立ち上げられました。その先生は亡くなられましたが、その意思を汲んで、この会は
現在も続いています。
核兵器禁止条約が国連で採択されたのは2017年7月7日でした。「核兵器は違法である」と条約は宣言しました。それから
4年、批准した国が今年2021年1月に52に達し、「核兵器禁止条約」を発効しました。ただ、日本は唯一の戦争被爆国であり
ながら、条約を批准していません。ヒロシマ、ナガサキの被害の大きさを一般市民が知るのは戦後すぐではありませんでした。
実情を知るのは終戦の7年後、『アサヒグラフ』の原爆特集が出版されたときです。戦後数年間、原爆は戦争を終わらせた良い
ものだと言われていました。
「核兵器が核抑止力と言われるが、ほんとうはヒロシマ・ナガサキが一番の抑止力になっている」と言うのはカナダ人の
ドミィトリさんです。彼は長崎市生まれの「知の巨人」と呼ばれた立花隆氏の友人です。立花隆さんは1940年、長崎大学付属
病院で生を享けられました。2歳のとき、活水女学院にお勤めだったお父さんが中国の学校に移られました。
「世界で2番目に原爆が落ちた長崎で生まれたというのが、僕の人生に大きな影響を与えた」と言っておられました。
2021年(令和3年)8月9日の長崎平和祈念式典