皆様からのお便り 2.B  「リベットボイラ」   牧浦 秀治様

牧浦様よりリベットボイラーの記事を頂きました。三菱と合併したBHK(東洋バブコック)が1941年に日本製鋼所に納入したボイラー
が80年の現役を終え、これを機会に、技術遺産として三菱横浜製作所本牧工場に展示することになりました。戦艦武蔵や大和の建造に
使用された当時の最先端のリベット技術で製作されたボイラーです。技術の歴史を語る重要な展示物として一読下さい。(伊藤)

「リベットボイラ」    牧浦秀治

1.背景
 2019 年暮れ、日本製鋼所室蘭製作所から当社(合併前の東洋バブコック)製の石炭焚きボイラ(25t/h,4.25ⅯPa,380℃)
1,2 号を廃炉すると連絡があった。本ボイラは戦艦大和が進水した年と同じ 1941 年(昭和 16)に納入(製作開始は
1939年)されたもので、ドラムは戦艦大和や武蔵と同じリベット打設構造である。製作当時のままのドラムを当社がもらい
受け、技術遺産として三菱重工横浜製作所のCS プロモーションセンターに展示することにした。もらい受けたのは
1 号ボイラドラムである。

                     展示リベットドラム(長さ 6.4m×外径 1.3m)

2.ボイラ高圧化への歴史
 1765年ジェームズ・ワットの蒸気機関発明以後、高温・高圧化が進められる。ワットの蒸気機関の特許が切れた 1800 年
以降、誰でもこの分野に参入でき高温・高圧化が加速され 1830 年ごろには 0.2~0.3ⅯPa(2~3kg/cm2)まで圧力が
上がった。このころからボイラの破裂事故が多発した。ワットは高圧化の難しさや恐ろしさを知り、素人が製作して破裂事故
が起き、蒸気機関が否定されないように特許を取得したとも言われている。
 歴史に残る最悪な事故は 1865 年の死者 1700 人を超えるサルタナ号事件だ。南北戦争が終わり南軍に捕まえられていた
捕虜を輸送するために大型客船サルタナ号を徴用する。ミシシッピ川を北上していた外輪船サルタナ号は、ボイラが相次いで
爆発し大火になる。爆死したり焼死したり川に飛び込んだものの多くも流され、判明しているだけで 1450 人が死亡した。
行方不明者を含めると死者数は 1700 人を超えるとも言われている。
 この事故を契機にボイラの安全審査と保険業務を行う HSB(Hartford Steam BoilerInspection & Insurance Co.)が
設立される。1880 年には ASME(米国機械学会)が設立されたが技術が統一されず、34 年後の 1914 年全米基準の
ASME Boiler &Pressure Vessel Code が制定された。
 リベットに替わる溶接ドラムは、我が国では 1940 年(昭和 15)、長船で最初に製作された。本格的に溶接ドラムが広まる
のは、海外の進歩した溶接技術導入を待たねばならず、1950 年(昭和 25)以降である。リベットドラムの最高圧力は
5MPa だった。

3.三菱横製 CS プロモーションセンター展示ドラムの特徴
 当時、リベットドラムの圧力が 3.5~5MPa の高圧に対して胴体は単一の鍛造品を要求し両端の鏡板リベット締めを認めて
いる。展示されている常用圧 3.9MPa (最高使用圧力4.25MPa)のリベットドラムはこの要求に基づいて製作されている

                      鏡板とドラム胴体との継手

 

                      リベット継手の切断面

 1954 年(昭和 29)制定の JIS 規格の水圧規定・解説では「最高使用圧力 1ⅯPa 以下のリベット構造ボイラ
の水圧試験は、試験が終わるまでにリベット継手の漏れが泡状に止まる場合は継手を緊密なものとみなす。」
とされている。このような解説がされていることから、昭和 29 年当時でもリベット構造のボイラは1MPa 以下でも
シール性が困難であったことの裏返しだろう。

 なお、戦艦大和も武蔵もリベット構造物だが喫水線は10㍍超、船底にかかる圧力はボイラと比べて一桁小さい
0.1MPa である。 了