長船よもやまばなし 『英傑「岩崎彌太郎」』
岩崎彌太郎の人生一番の賭けは、明治7(1874)年の台湾出兵への政府からの依頼を受ける決断だったのではないか。
当時、三菱は、政府出資の日本国郵便蒸気船会社と航路の拡大を巡って死闘の闘いをやっています。最初に政府から依頼された日本
郵便蒸気船会社は自分たちが台湾対応している間に三菱が顧客を奪うとして断ります。
一方、岩崎彌太郎は「男が一度始めた事業、ここで政府の依頼を断るのは恥。申出は光栄であり、千百の失敗があろうとも、十一の
成功に期し全力を尽くす」(岩崎彌太郎傳下巻)と申出を受けます。
明治3年に「夕顔、紅葉丸、鶴」の三隻で始めた岩崎は、台湾出兵後に政府保有船と日本国優先蒸気船会社保有船の三菱への払い下
げで約40隻になります。明治10(1877)年の西南戦争が終結したとき、三菱保有の船は日本の6割以上になります。
写真はこの時に撮影されたもののようです。 岩崎彌太郎、当時43歳。 「牧浦記」
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当時、三菱は、政府出資の日本国郵便蒸気船会社と航路の拡大を巡って死闘の闘いをやっています。最初に政府から依頼された日本
郵便蒸気船会社は自分たちが台湾対応している間に三菱が顧客を奪うとして断ります。
一方、岩崎彌太郎は「男が一度始めた事業、ここで政府の依頼を断るのは恥。申出は光栄であり、千百の失敗があろうとも、十一の
成功に期し全力を尽くす」(岩崎彌太郎傳下巻)と申出を受けます。
明治3年に「夕顔、紅葉丸、鶴」の三隻で始めた岩崎は、台湾出兵後に政府保有船と日本国優先蒸気船会社保有船の三菱への払い下
げで約40隻になります。明治10(1877)年の西南戦争が終結したとき、三菱保有の船は日本の6割以上になります。
写真はこの時に撮影されたもののようです。 岩崎彌太郎、当時43歳。 「牧浦記」
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