皆様からのお便り 『盲腸も自分で抜糸(ブラジルの思い出)』 古川 勲様
創業150年周年記念の「よもやま話」に掲載されなかった原稿です。故人になりました長船建設部の古川勲の寄稿です。
海外出張経験者のほとんどが、早く済ませて日本に、長崎に帰りたいという。現地を去る者の顔には笑顔がいっぱいです。私の中には海外
には二種類の国があります。
日本に戻って何年経っても「絶対に行きたくない」という国、一方、時間が経つに従って「ああ、もう一度行きたい」と懐かしさとともに
気になる国。私にとって後者はメキシコです。ブラジルも時間が経つほどに郷愁が募る国ではないでしょうか。盲腸を自分で抜糸させられ
ても憎めない国です。 「牧浦記」
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盲腸も自分で抜糸
古川 勲(長船建設部)故人
昭和49年(1975年)も押し迫った12月20日当時としては異国も異国、地球の裏側への出張の話が舞い込んだ。「サンバとサッカーのブ
ラジル」。ポルトガル語は勿論、英語だって覚束ないのに、そんなこと全く気にならず一路ブラジルへ。

ブラジルの航空会社「バリグ航空」の狭い機内では、到着までの間、此れでもか?此
れでもか?と食べ物飲み物デザートと休むまもなく持ってくる。スチュワーデススに
「ブラジルってどんな所?」と聞くと、「酒はうまいしネーちゃんは綺麗だ」…とこ
の頃はやっていた「オラは死んじまったダー」の歌をまねて帰ってきた。
12月の寒い日本を出発して気候も全く反対の南半球リオ・デ・ジャネイロは35℃位
の蒸し暑い夏真っ盛り。翌日1日かけてプラントのあるウジミナス製鉄所へ到着。殆どのブラジル人はアフリカからの移民で、中には日系の方や白人系がパラパラと。ポルトゲスが全く話せることが出来ない私には、ニッコリほほ笑む彼らに合わせて引きつった微笑を返すのみ。
その日は12月24日のクリスマスイブ゙、早速カトリック教会をホテルで教えてもらい
訪ねて行った。ホワイトクリスマスならぬ真夏のクリスマス。教会の中は大勢の人で
熱気がムンムン 。 異なった国で同じ宗教を持つ者同士でこんなに一体感を感じるこ
とが出来ることに素直に感激した。

ブラジルと言えばリオ、リオと言えばサンバ‼、リオまでは行けなかったけど近くの小都市
でサンバの見物。ところが陽気な彼らからの誘いもありいつの間にかサンバのリズムに誘わ
れて踊りだしていた。初めてで最後のサンバにシャツはビッショリの汗、楽しく現地の人の
中に入って踊れた自分にビックリ。
これらの体験の他、盲腸になった。24時間病院で放置され漸く手術、ドクターとナースがガ
ス麻酔後に手術。麻酔をかけられる前に「嗚呼これまでか」と半分は諦めの心境になる前に
意識はもうろうなった。手術が終わって気が付いたらベッドの上、麻酔が切れてお腹全体が
痛いの痛いの。翌日の昼過ぎに「サー退院ですよ」と。「エーツ、ウソやろ、日本では最低で
も1週間は入院してるよ」の声も聞き入れられず。「あなたより他に死に掛かった人が沢山
いるんですよ」の言葉に手術2日後に退院。
抜糸は自分で済ませた。この様な状況は家内には連絡してもらったが、年老いた母には心配
かけると思い伝えないようにお願いした。
盲腸の原因はお昼に食べた「海老のから揚げ」の一部が刺さっていたらしい。切除した盲腸
はお土産に貰って帰った。ブラジルは私にとって懐かしい国のひとつです。
以上