皆様からのお便り 『偉大なる先輩から学んだこと』 岩崎啓一郎様

「頭は考える為に使え!覚える為にはメモをせよ」「作業員には言葉だけで説明するな!絵を描け!」。岩崎さんの投稿を読んで私が現地に居た時
に先輩や古参の指導員から何度も言われた言葉を思い出しました。今でも「メモをする。描いて説明する」をやっています。
「NOから入るな!」は岩崎さんの会社人生に大きな影響を与えたようです。その人が亡くなられた後にも、その人を偲び、感謝する。
部下に影響を与えるのは、その人の役職の権限か、その人の人間力かです。
役職でのそれは役職を外れると消えてしまう。人間力でのそれはその人が亡くなっても、何かの弾みに記憶を辿って「こんなこともあった、あんなこ
ともあった」と敬慕の念をもって思い出されるものです。
                                                        「牧浦記」
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 偉大なる先輩から学んだこと
                                                   岩﨑啓一郎

増田信行さんがご逝去されて、5か月になろうとしています。私は増田さんと同じ旧一工作部に入社した関係で、さまざまな場面で増田さんにご指導頂きました。その中のいくつかをこの場を借りて紹介したいと思い纏めました。

1.一工作部時代

私は昭和53年(1978年)に三菱重工に入社し、7月から長崎造船所第一工作部組立課に配属になりました。
当時の直属の課長は花田公行さんで、増田さんは隣の第一機械課長、部長が永石さんでした。 数年後部長は久米さんに代わり、増田さん
は次長になられていたと思います。
時期は定かではありませんが、ある時、部長室で何かを報告した折、久米部長から「岩﨑君、君にはNo禁止令を申し渡す。」と言われて
しまいました。増田さんは傍におられて、「Noから始めると物事を建設的に考えられなくなるからだ。」と説明して頂きました。

 増田相談役と一緒に 中国訪問時に撮影 貴州省貴賓にて

当時、私はスペインやアメリカの発電所建設工事等の長期出張で工場には殆
どいませんでした。
その後、増田さんは一工作部長になられて1985年10月1日付けで部長室直轄
の「技術開発グループ」をつくることを決められ、私はその一員に指名され
ました。まだ、アメリカのヒーバー地熱発電所の試運転中でしたが、排熱蒸
気が地下に戻らない問題で出力が伸びない状況が続いていたのでお客さんの
了解を得て帰国。 約1か月遅れで技術開発グループに合流しました。

そして、私は一機の無人翼環製造ラインをつくる特別建設を担当するように
指示されました。しかし、当時の一機はNCで動いている機械もほとんどない
状態。そういう中で横中ぐり盤と竪型旋盤を無人搬送ラインで繋ぐという計
画。私にはあまりにも現実離れした計画に思えて、担当できないとかたくな
に固辞し、ついに増田部長に直談判しました。

増田部長の前で私ができない理由をとうとうと述べると、増田部長は「岩﨑
君、この計画は長船所長と原動機事業本部長の連名で取締役会に諮り、承認
されたものだ。これをできないというのではなく、如何にしてこの計画に近
いものを実現できるかを考えて報告してくれ。わかったか」と一蹴されまし
た。私はこの部長の指摘になぜか納得し、さすが部長だと尊敬の念を抱いた
のを忘れません。

そして、その日の定時後だったと思いますが、飲みに連れて行ってもらった
ところで、久米部長から以前言われた「No禁止令」の話を増田さんがされ
て、「今後は必ずYesから入るようにしろ・・・・・」と言われてしまいま
した。これが私にとってその後の長い会社人生の中の大きな教訓となりました。

2.増田さんが社長時代、私は一機課長時代

その後、私は特機部に異動し、増田部長はやがて長船を離れ、広島、下関を経由されてついに社長に就任されました。ちょうどその頃、私
は一工作部に戻り一機課長を拝命していました。 増田社長が長船を訪問された折に一工作部に寄られ、久しぶりに再会しました。懐かし
くお話をしている時に突然「岩﨑君、君は一機の生産性をどこまで上げたか」と質問されました。「俺は4倍にしたぞ。・・・・君も俺と
同じくらいの生産性向上をしてくれ、頼むぞ・・・。」と言われたので、「頑張ります。」とだけ返事し何も反論しませんでした。
すると増田さんは一機の生産性向上が進んだ結果、チーム作業がなくなり、大きな工作機械を各々一人で操作する職場に変化した。その結
果作業者は個人作業の責任の重さと精神的負担の大きさなどの課題に直面しているから難しいと私の悩みを代弁してくださいました。そ
て、帰り際に私の肩を叩いて「頑張れよ。頼むよ!」と言われて車に乗り込まれました。

3.増田さん相談役、私が本社時代

その後、私は特殊機械部に再度異動し、2004年から本社の航空宇宙事業本部に転勤しました。そして、2008年から航空宇宙事業本部業務
部長となり、当時スタートしたMRJ(三菱航空機株式会社)の管理責任を仰せつかっていた頃、増田相談役に呼ばれました。
第一声は「MRJは国家プロジェクトだし、三菱重工にとっても大変重要なプロジェクトだ。頑張れよ・・・・・。」と、励まして頂きまし
た。 数年が経ち、副事業本部長に就任した挨拶に行ったら、「本当によくなれたな!」と褒めてくださいました。そして、MRJの進捗状
況の話をしている時に、私が名航の問題点を口にしだした時でした。増田さんは「今の君の言い方は何だ! 評論家のように聞こえるぞ! もっと、当事者として、自分の事として話さないと人はついてこないし、解決できないぞ。 名航の事はいろいろと聞いているが、いまや君はそれを纏める立場だ。どうすれば、よくなるかを名航の皆と一緒に考えて一つ一つ解決していくのが君の役目だろう。」と厳しく諭
されました。

4.増田さん相談役、 私が中国総代表時代 

毎年4月に 河野洋平会長を団長として、日本国際貿易促進協会(略称:国貿促)が中国を訪問し、北京では李克強首相など要人を表敬訪
問していました。増田さんは当時筆頭副会長として河野会長をサポートされていました。 北京での会合の後、地方に行きますが、
2014年は貴州省貴陽を訪問しました。

     貴陽の現地で民族衣装の女性と  北京事務所で揮毫を終えた増田さん

貴陽の観光地で増田さんと雑談をして
いると、河野会長がわざわざ近づいて
こられ、増田さんが
「彼が岩﨑君です。三菱重工の中国総
代表です。・・・」と紹介してくださ
ると、
河野さんが
「岩﨑さん、増田さんは私にとって、
また国貿促にとって欠くことのできな
い方です。あなたからも増田さんには
いつまでも国防促副会長を続けてもらうように言ってくださいね。」とお願
いされました。

その前に増田さんから、足が少し不自
由になってきたからそろそろ後進に道
を譲りたいと聞いていたので、私は答
えに窮していましたら、増田さんがう
まく取り繕ってくださいました。する
と河野会長が「岩﨑さん、今の増田さ
んの言い方はうまいでしょう? 増田さんは中国人と話をしている時も同じ様にうまく纏めてくれます。本当に絶妙な話術です。

国貿促の副会長は他にも何人もいますが、増田さんほど頼りになる方はいないですよ。本当に頼みますね。」と言われてその場を去られま
した。増田さんの場の作り方、話の進め方などについてはこれまでも上手いと思っていましたが、改めて、これも三菱重工の社長にまで上
り詰められた要因だろうなと再認識しました。

北京のレセプションで(写真左 MHIAスタッフ、写真右 現在の中国総代表原さん)撮影:増田信行氏

また、北京事務所の中国人スタッ
フたちも増田さんが大好きで、
「北京に来られるなら是非事務所
に寄ってもらうように言ってくだ
さい。」と皆異口同音に私にお願
いにくるのです。

そもそも、歴代の社長で北京事
務所に来られた方が何人いるで
しょうか?その中で中国人スタ
ッフと話をされた方はいらっしゃったでしょうか? 

以上のように、増田さんはいつ
も軸がぶれずに物事を建設的に
解決しようとされ、包容力もあり
、そして臨機応変な対応ができる
方だと思っていました。

私が心から尊敬した方でした。

  
                                              以上