長船よもやまばなし『潜水器「泳気鐘」』
潜水器「泳気鐘」は、長崎製鉄所が着工する23年前の天保五年(1834年)にオランダから長崎に届いた。四角い底のない箱で天井に10個の穴(長辺
各4個×2,短辺各1個×2)と天井の真ん中に空気送入口がついている。寛政五年(1793年)に幕府がオランダ東インド会社発注した。オランダ
東インド会社が1799年に解散させられ、その後オランダ政府が引き継いだ。オランダでは製作できなかったので植民省からイングランド(ロンドン
で製作)に発注され1832年に完成しオランダ経由で日本に届いたものである。発注から長崎に届くまで41年かかっている。
長崎に届いた時は、長崎製鉄所建設の構想など全くない。幕府は、泳気鐘を使って大村湾の豊かな海産物(特に真珠)を採りオランダに輸出しようと
考えていた。使用方法の説明・指導にオランダ人二人がやってきたが海が荒れていたため、帰国し翌年来日くる予定だったが彼らは来なかった。
製鉄所で出来たボイラなどの機械を蒸気船に乗せ換えるのは接岸岸壁が必要である。この護岸工事に泳気鐘の使用を提案したのはハ・ハルデスらだ。
使用方法が分からず出島の倉庫に保管されて居た泳気鐘を見つけ、安政五年年(1858年)に艤装岸壁の石積工事に使った。
泳気鐘がオランダに発注されて65年目、長崎に届いて24年後に使われた。
どのように使うのかハルデス自身も悩み、苦労している。石垣は「水上、二間、水入四間ほどに築き立て」とあるから海面下は約7㍍の深さになる。
ヤーパン号(後の咸臨丸)でハルデスと一緒に長崎にやってきた医者ポンぺが『日本滞在見聞記』で次のように書いている。
「また、船体修理に便利なように船が接岸できるための埠頭の必要が生じた。・・・・・ハルデス氏はこの大きな仕事をも手がけた。数ヵ月の間、彼
は潜水函に身をひそめて長い時間を過ごし、水中にもぐり、重い石の沈下粗朶をその場所に沈めて突堤の基礎をつくりあげた。」
「ハルデス氏はけだし稀有の人材であった。彼の前にはいかなる困難も障害も物の数ではない。」
ハ・ハルデスが居たゆえに泳気鐘は護岸の石積工事に活かされた。
下記では泳気鐘を「イクルスコロック」と表示しているが「 ド イクルスコロック」と表示している文献もある。オランダ語では「DUIKERS KLOK」。
参考文献:「泳気鐘」雑考㈠、㈡ 長崎談叢62輯(1979年)、63輯(1980年)
以上 牧浦記


