皆様からのお便り 『海外体験記~チュニジア』 石瀬史朗様
イングリッド・バーグマンとハンフリーボガードの演じた映画「カサブランカ」は❝モロッコ❞を舞台にしている。コロナが発生しカミュ
の小説『ペスト』は❝アルジェリア❞のオランという町を設定し書かれている。❝リビア❞というと悪名高きカダフィ大佐に結び付く。
石瀬さんが❝チュニジア❞の体験記を寄稿してくれた。さてこの国はどこか、カルタゴの遺跡で有名なチュニスがその国の首都であること
も知らなかった。原稿を頂いて地図帳を開いて、初めてチュニジアはリビアとアルジェリアに挟まれたイタリアと国境を接している国だと知った。 「牧浦記」
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海外体験記~チュニジア
石瀬史朗(昭和58年(1983年)入社)
北アフリカに位置するチュニジアは、地中海の恵みや世界遺産の古代都市の遺跡などで知られており、欧州の観光地となってい
る。そんな地に入社間もない私がタービン試運転担当で赴任した。残念ながら軸受焼損、水平接手面からの蒸気漏れなどが発生
し、1年の予定が結局三年弱の滞在となった。この間、仕事ではもちろんであるが、仕事以外でも貴重な体験をさせていただい
たのでここでは、生活、文化についてご紹介する。
【チュニジアとの最初の接点】
初めてのフィリピンマクバン地熱5,6号機にて試運転業務がほぼ終わった昭和59(1984)年12月に、「28日のゴミ流しには石瀬
を出社させるように」との指示が長船からあったことを伺った。初めての現地だったので正月は家族と過ごさせてやろうという
優しさ?かなと(勝手に)解釈し帰国した。28日の朝、高橋伯課長のもとに帰任報告に伺ったところ、「次は2月からチュニジア
へ行ってくれ。。事業用は初めてだから早く準備せよ。」と告げられた。(うむ、そういうことだったのか。。。)
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| チュニジア・ラディス発電所170MW×2基(1985年撮影) |
浦上副所長来所、中央制御室にて(1985年撮影) 浦上副所長の向かって右が筆者石瀬 |
【生活では緊張する場面があった!】
昭和60(1985)年2月中旬にチュニジア/ラデス170MWタービン試運転業務に出向いた。
チュニジア電力庁向け亜臨界ガス・油焚きプラントのターンキー工事で、全体取り纏めとボイラ設備および工事は神船、タービン設備は長船(FOB)という組み合わせである。
神船からの派遣者を含め40人くらいの日本人は、バスで約40分離れた古い(一応リゾート)ホテルに滞在した。海沿い3階建ての3階フロアを貸し切り、フロア隅にはべニアで仕切って共同の厚生部屋があった。日本のTVビデオ、新聞、図書、飲み物が揃えてあり、仕事帰りにほぼ毎日立ち寄りくつろいだ。
チュニジアは観光が産業で治安が悪い方ではなかったが、昭和60年10月には、ホテルから20-30kmぐらい離れたところにあったPLO本部に爆弾が数発投下された。偶々、夜勤明けでホテルに居た人は音に驚いて逃げた人もいた。イスラエル軍が何かの報復でアラファト議長を狙ったらしく、一報を聞いて我々も皆が緊張した。しかし攻撃は一瞬のみでその後何事もなく、町にも混乱は見られず、我々も避難することなく仕事が続いた。(あっさりした攻撃だなぁと思った)
また、保証技師時代の昭和62年にはクーデターが起きた。いつものように朝の迎えの車を家で待っていると三菱商事支店長から
電話が入り、「今日は出勤するな。町に出るな。」と言われた。どうも大統領が更迭され、街角には軍がものものしく配備されて
いたそうだが、幸い暴動は起こらず無血で終わり2日ほどで戒厳令は解けた。その間まったく動けず、TVを見てもアラビック放送
では何が何だか状況は分からず、ひたすら睡眠をむさぼった。家の備蓄食料が少ないため、長引かないかが一番の気がかりであった。
【古代地中海の遺跡と歴史は凄かった!】
チュニジアのオフタイムといえば地中海と歴史である。 地中海の面した海岸にはレストランがいくつかあり、冬には欧州の白人観光客が暖かさを求めて多数訪れる。限られた砂浜では外国人専用の海水浴場までオープンしていて、オープントップの女性をちらちら横目でみて歩いたものだ。(うふふ。。。)
フェニキア人の作ったカルタゴ遺跡は壮大であった。
ローマ帝国に襲撃され崩れてはいるものの、丘の大きな石の上に立つと紀元前数百年の太古におなじようにこの岩に立って海を眺め、敵と戦ったと勇士を想像して自分を重ねたり、円形劇場では裁判や演説などが行われていたことなど、時空を超えた空想が面白かった。
(ローマ軍が海から襲ってくるのが見えるようだった!)
【チュニジア人の文化に触れた!】
保証技師時代に仲良くなった同い年のチュニジア人オペレータが、自身の結婚式に招いてくれた。チュニジアのイスラム教はさほど厳格ではないものの、やはり昔のイスラム教らしい“結婚のしきたり”が有り、教えてもらった。
① 結婚できる条件はまず男性(新郎)が家を建てる(これが大変で結婚をあきらめる人も居るらしい)
② 男性が相手宅に羊を数頭届けて、両親の許可を得る(家柄や収入に見合った数でないと駄目らしい)
③ 式当日は新郎が新婦宅に迎えに行く。そして道沿いの観衆にお披露目しながら二人で新居に移動して入いる
(但し、家のなかへは二人きりで家族は入れない。)
④ しばらくして、新郎新婦が2階の窓から顔を出して手を振り、それに応えて外で待っていた近所の住民や親族が、
初めて独特の奇声を発しながらアラブ式音楽を奏でて祝福をする
というものであった。特に、当日は③④を目の当たりにして興味深かった。
(どこの国でも結婚には金がかかるんだなぁ。。。)
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| 友人の結婚式で新郎新婦と記念撮影 昭和60年(1985年)撮影 後列左から一人目が筆者 石瀬 |
お祝いの席では、チュニジア人でも普段食べないような伝統的料理が次々と回ってきた。部位が何か分らない真っ黒な肉の塊、美味しいとは言えない味付けの料理ばかり。飲み物もチャイ(お茶)でもない伝統的なお手製の味気ないものしかなく、閉口した。ご家族の前で食べないわけにはいかず、笑顔で頬張り流し込むのがやっとだった。
翌日はトイレから離れられなかったことは言うまでもない。(拷問だった!)
【結びに】
チュニジア赴任中に一時帰国をして結婚をした。一年後に保証技師で残った際には帯同を許可してもらい、妻は約4か月間来てくれた。フランス語やアラビックが分らないまま、わずかに覚えた単語を使ってスークで買いものをし、工夫して食事を作ってくれた。お釣りをごまかされたことは今でも笑い話になっている。初めて夫婦で住んだ思い出深い地でもある。
離れて38年が経った。そろそろ時間を作って、あの発電所の今を見てみたいし、夫婦でスークの独特な匂いをまた嗅いでみたいと思っている。(勿論、買い出しはしないが)
以上


