皆様からのお便り  「瀧 頼母さんを偲んで」  河合武久様

令和4年(2022年)10月に享年92歳で他界されました瀧 頼母様と様々なプロジェクトでご一緒に仕事された河合武久様より 追悼文を
頂きました。(伊藤 )


  瀧 頼母さんを偲んで     河合武久

 瀧頼母さんは昭和28年長崎造船所に入社された。最初ガスタービン開発に従事されたが、その後プラントエンジニアに
転身された。若い頃マラヤプライ発電所30MWの建設所長を務められ、現場の泥臭い苦労を通じて、技術と人間を
磨かれた。
  スペインローター 爆発事故の後、相川さんは事故処理と健全ローター開発に奔走されたが、その中で、場合によっては責任を
取って三菱を辞めねばならぬ。その時は山でも開墾してカントリーライフを楽しむさ。と考え琴海の海辺の見晴らし良い場所
に山を購入された。「琴海の丘」と命名され休日には山の開墾に精を出された。瀧さんはその考えに共鳴し、相川さんの山を
半分分けてもらい山の持ち主になった。瀧さんはその様なロマンに燃える心を持った方でもあった。

 瀧さんが活躍された20世紀後半は、世界中が電気による生活向上を求めて、火力発電所の増設にまい進した半世紀であった。
この間、名もない極東の一メーカーであった三菱重工は、発電所の主機であるボイラー、タービン両方を製造する利点も
生かして、シェアを伸ばし、現在では世界のトップメーカーに成長した。

 その中で、瀧さんは発電所全体を取りまとめるプラントエンジニアとして指導力を発揮され、大部分の三菱重工製輸出火力の
受注とプラント設計に力を尽くされた。 私は、タービンエンジニアとして、瀧さんの後について世界中を駆け回った。

 瀧さんの顔を思い浮かんでまず思い出すのは、技術に厳しい ,自らの信ずるところに従って ブレない方だった、ということだ。
たとえ客先でも技術的におかしいことは ズバリと指摘した。傍で聞いてる者はハラハラしたものだ。
しかし、粘り強く、丁寧に説得している内に客先も折れてきて、 最後は絶大の信用を瀧さんに持つようになる。
大切なのは、技術力にプラスして誠実さだということを教えられた。

 技術的に素晴らしいだけでなく、危機に臨んで腹の座った方だった。イランへの輸出初の大型案件、イラン電力ラジャイ発電所
250MWx4台の受注交渉に瀧さんを団長として、ボイラー、タービン、プラントエンジニア、営業がテヘランへ派遣された。
テヘランで受注交渉をしている内に、イラン・イラク戦争の戦況がエスカレートして、イラク空軍がテヘランを空爆するように
なった。
 夜ホテルで仕事をしていると、突然空襲警報が鳴り響き、町は真っ暗になる。暫くするとイラクのジェット機がやって来て
爆撃の音が聞こえてくる。客先からは打合せ継続を求められたが、我々と並行して技術折衝をしていた、フランス・アルストム、
ドイツ・シーメンスなどは打合せをさっさと切り上げて帰国してしまった。
 太平洋戦争でアメリカの空襲を耐え抜いた日本人から見れば、イラクの空襲は可愛いものであった。瀧団長は、ピンチはチャンス
であると判断し、客先要請にこたえ空襲の中技術打合せを続ける決断をされた。しかし、戦況は次第に激しくなり、ついに
テヘランでの打ち合わせを断念し、イラクが攻めてこないカスピ海沿岸の村に疎開し、そこで技術打合せを続けた。


      イラン・ラジャイ受注交渉団の面々(敬称略  於三菱商事イラン支店長宅)
    後列左から  商事佐藤  重工(二工作)矢嶋  河合  高橋  三電風
    中央左から  菅原     瀧     秋庭  イラン三菱商事支店長小島夫妻
    前列左から  五月女    米田    大西       若

 

紆余曲折はあったが、イラン国の苦衷の時に逃げ出さなかったことも効果を発揮し、このプロジェクトを受注する
ことが出来た。更にその後の後続機イラン・ガーブ250MWx4ホールプラント受注に繋がった。

 この半世紀、三菱重工の多くの方々、営業、設計、資材、工作、建設、研究などなど の方々が、世界のインフラ
ストラクチャー火力発電所の建設に、縁の下の力持ちとして汗と涙を流した。その中で瀧さんは中心の一人として
皆を引っ張り、発展に尽力された。そのご功績を称えると共に、心からご冥福を祈ります。