長船よもやまばなし『昔むかし、飽の浦は?』


長船よもやまばなし『昔むかし、飽の浦は?』 


製鉄所の長崎への選定の前話

長崎(飽の浦)に製鉄所を建設するのは江戸では「遠すぎる、江戸近くにすべき」という意見が主流だった。万が一薩摩と戦いになったら
製鉄所が薩摩に取られてしまうのではとの心配もあったのではないかと私は思う。

製鉄所の長崎建設について、外国奉行岩瀬忠震は長崎出張から江戸にもどって、安政5年6月21日付の報告で次のように反対している。
「當所(長崎)ニは鐡更ニ無之、遠方より取集メ、出来之上又遠方へ積送ると申様ニてハ、辨利之鐡造器出来候詮も無之、且は地所も狭隘
ニて、十分取建も出来申間敷、江戸近傍へ取建て候得ば最も妙・・」
長崎は鉄の地もなく遠くから集め出来た製品をまた遠くへ送るのは無駄である。場所も狭い。江戸近傍に作るのが最も良い)。

反対した岩瀬忠震は飽の浦の建設を最終的に以下の様に承認している。
「追ては御都城近くの場所へ差置き候方然るべく候得共、當地滞在の蘭人共へ質問伝習し候については、差向き當地(長崎)へ御取建の方
然るべし」
将来は江戸近くに建設すべきだが、オランダ人も近くで指導を受けやすいのでとりあえず長崎での建設を許可する)。

前年、安政4年10月には建設が始まっていて岩瀬忠震も現状を無視できなかったのだろう。飽の浦推進派・長崎奉行の作戦勝ちのようだ。

               参考文献:『大日本古文書幕末外國關係文書之16』(東京帝國大學文學部 史料編纂掛 大正12年3月発行)
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