皆様からのお便り 『「思い出の発電所」エンジニアとしての原点は松島』 橋本貴雄様
昭和55年(1980年)は、イタリアサミットで「石油焚きボイラの新設抑制」が決定された年である。オイルショック回避のため石油代替エネルギーの拡大が議論され、日本では石炭火力が見直されていた。その年に私は長船火力プラント部建設課に入社、最初の現地が橋本貴雄さんが設計担当した松島火力だった。大学出たての私には、松島の島影は当時はやっていた映画『獄門島』のように見えた。でも、そこは石炭焚き超臨界圧ボイラ建設の地、最先端の石炭燃焼技術が採用され多くの一流の技術者が現地に常駐していた。橋本さんからNOxの発生機構を学び、低減理論を教えて頂いた。そのお陰で、入社一年足らずの私でも石炭焚き改造をする他のお客様に自信をもって石炭燃焼を語ることができた。 「牧浦記」
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『思い出の発電所』エンジニアとしての原点は松島
橋本貴雄
写真は電源開発株式会社(Jパワー)松島火力発電所です、私の『思い出の一枚』は1号ボイラ試運転初期の燃焼調整前の 炉内写真ですが、手元にその写真がないので『思い出の発電
所』としました。
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| Jパワー松島火力発電所(出典:インターネット) |
ところで、2 月号の西妻さんの早明戦トライ写真は『思い出の一枚』にぴったり!「ラグビーのあの西妻や畠本が同期」と知り合いなどによく話していました。
日本初の海外炭石炭焚火力発電所として昭和 56年に運開し、長崎県全世帯に供給できる50万 KW×2、合計100万KWの松島火力発電所。試運転での設計者経験は私のエンジニアとしての原点です。
ボイラ設計者としては新材料9クロム材の短時間クリープ/過熱器管漏洩が発生した相馬新地2号や東北電原町1号、自社開発蒸気ドラムの汽水分離不良/管内水詰まりと漏洩が発生した沖電金武1,2号など忘れられないボイラが多くありますが、その中で電発松島1,2号ボイラの試運転や燃焼試験の経験は特別でした。
昭和 51 年(1976 年)入社の当時、オイルショックによる原油高騰などで輸入石炭焚き火力の建設が求められていました。運転中の国内石炭火力は数少なく、かつ国内初の海外炭
焚きでしたので実績はなく設計ノウハウも限られていたと思います。長船や神船や保管されている石炭焚きボイラの古い資料を全員勉強中でしたので、私も既設油焚きボイラの低 NOx バーナ改造に取り組む傍ら石炭焚きの学習にも取り組んでいました。本社原動機技術 センター(田町)では、石炭焚きボイラの経験豊富な米国CE社の協力を得てボイラプラントの基本計画が進んでおり、ボイラ本体の計画担当は2年先輩、原技センター一期生のボ技一佐藤進さん。
昭和 53年 (52年?)頃に試運転が始まって現地の長船試運転チームは統括責任者の南里さん以下の凄いベテラン陣で、お客様も石炭火力の建設・運転の経験豊富でしたので全体試運転計画の中での燃焼試験計画を若造が説明し納得してもらうための努力は必要でし
た。試運転チームには入社直後の牧浦さん(編集者)もおられて設計根拠について質問多数、今と同じく熱心な情報収集の様子が印象に残っています。
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| 松島と池島(出典:GoogleMaps に加筆) |
松島には対岸の大瀬戸港から町営船やフェリーで約10分、約5年間通いました。2プラントを並行しての石炭火力の建設ですから島にはユーザー、メ ーカー、建設作業員を含めて一時的には数千人(?)
が居住しており他の発電所建設にはない“熱気” に溢れていると感じていました。アフターファイブに島外に出ることはできませんので松島内の酒屋売上は国内最大であったとか、発電所建設前に大瀬戸町から松島までの橋を作るという話があったとかなどの噂話、これらは本当だったのかどなたかご存じですか?
試運転が開始され油バーナから石炭バーナへの切り替えられ、覗き窓から炉内を見た時にびっくり。『思い出の一枚』候補はこの時の炉内の燃焼状況ですが、火炎が吹っ飛んでいてバーナ根元では着火しておらず炉中央でやっと着火していました。窒素酸化物
NOx は高く、失火を懸念し、灰は真っ黒と今後の燃焼試験は想像していた以上に大変であると思い、燃焼試験での打開策を求めて発電所敷地内を歩きながらずっと考えていました。詳細は省きますが低NOxバーナの原理原則に忠実になって、着火、NOx、灰などの課題を同時に満足させることができました。松島では中国炭、豪州炭、南ア炭など燃焼特性が大きく異なる何種類もの石炭においてそれぞれの石炭での最適化が必要というハードルを限られた時間内で粘り強くやり切ることができました。
燃焼試験完了の後、本社原技センターの方々から次期計画のため試験経験に基づく多炭種での燃焼特性/伝熱特性予測などの質問が多数入ってきました。それならば自分の経験を自ら基本計画に生かしたらいいのではなかとの思いが強くなり、2号機引き渡しの約半年後に本社に転勤、佐藤さんと松島担当同士の交代でした。本社でも松島の経験に基づくアドバイス、質問をよく受けましたが、実務ではコンピューターでの計算に追われる日々でした。少し本社での経験を経た頃、油焚きとして計画されていた相馬新地
2号ボイラの石炭焚きへの計画変更があり、その担当となってやっと松島の経験を生かせることになり ました。相馬新地では米国亜瀝青炭混炭設計を松島の設計に付け加えることになり米国亜
瀝青炭プラントの調査がボイラエンジニアとしての第二の原点となりました。この時の写真も『思い出の1枚』の候補ですが海外出張報告に添付して手元にはありません。
松島での燃焼試験だけでなく、新材料9Cr 強度劣化のチューブリーク、自社開発蒸気ドラムによる蒸気管リークなども現地で復旧に取り組み、決め手となる対策に中々たどり着かず苦しみましたが、『絶対に解決する、諦めない気持ち』で多くのメンバーと一緒に取り組んだ記憶は忘れられません。
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| 筆者橋本近影(R8年2月撮影) |
松島の試運転は45年以上前、当時の記録や資料は手元に全くないため記憶違いなど多々あると思いますのでご容赦ください。75歳、後期高齢者になりましたが、久しぶりに文章を書く機会となり簡潔に纏める難しさを感じ、締切りを意識しながらも
J パワーHP を閲覧したり、松島、相馬、原町、金武を含めて多くの記憶を呼び戻す努力などの楽しい時間でした。認知症予防に役立つ絶好の機会を与えていただきありがとうございました。


