皆様からのお便り(久留 富郎様)

「ある技術者の回想」より《開発を支えた計算技術》   久留富郎様

令和元年9月の長機会総会の際、久留富郎様から「ある技術者の回想 三菱長崎のディーゼル機関開発」という御自身が書かれた本を贈呈頂き
ました。久留様は長船ディーゼル設計で活躍され、広島造船所勤務の後、大分工業大学(現在の日本文理大学)で教授、学園理事を勤められ
ました。各章とも「ある技術者の回想」というタイトルに相応しい興味深い内容ですが、ここでは目次及びこの時代を生き抜いたエンジニアに
共通する話題として《開発を支えた計算技術》をご紹介します。
                                                       (冨永 明)


まえがき
 1.長船勤務とディーゼル機関
 2.三菱長崎における戦前の自主開発
 3.戦後のMS機関
 4.過給2サイクル機関の開発
 5."るり丸" と "いかづち"
 6.UE機関系列の開発
 7.UE機関系列の開発 続
 8.UE機関用過給機
 9.大型機関用過給機
11.3重工合併後のUE機関
12.高度成長期のUE機関
13.オイルショックと舶用機関
14.低燃費化競争
15.超長行程機関
16.開発を支えた計算技術
17.無冷却過給機の進展
18.昭和末期の舶用ディーゼル機関
19.UE機関設計室の雰囲気
20.絶えざる挑戦
21.平成のMET過給機
22.絶えざる挑戦(続)
23.UE機関から派生した製品と技術
24.激動の時代を生きて
25.その後のUE機関とMET過給機
あとがき



《16.開発を支えた計算技術》

1944年、大学の機械工学科に入学してから、1999年、日本文理大学を退職するまで、一貫して技術計算が仕事の一部であった。その間、使用した
道具は計算尺、歯車式計算機、大型IBM計算機、電卓、進化した大型電子計算機、パソコンと発展し、進歩している。計算の対象はディーゼル
機関や過給機に関するものが多かった。
 大型IBM計算機が出現し、技術計算に使用されるようになって、計算技術は飛躍的に進歩した。その成果は12章4項の2段過給UE機関の
開発に際し、顕著に発揮されたのである。UE機関開発当初には機関の排気行程において発生する排気エネルギーの計算に計算尺を用いて1カ月
以上要していた。IBM計算機が使用できるようになって、この計算は数秒で処理できるようになり、計算機は開発の有力な武器となったので
ある。
 その後、さらに、CAD(計算機による図面作成)が発達し、設計室から計算尺や製図板が姿を消し、設計室の風景は一変した。
 以下、筆者の体験を主として計算技術の発展を述べる。

16-1 計算尺
電卓が普及するまで、加減算が主である日常生活では、算盤がよく使われていた。技術計算では乗除算が主であり、算盤では能率が悪い。計算尺は
対数尺2本を相互に滑らせて、対数を加算あるいは減算させて掛け算と割り算を行う。10インチ計算尺で三桁の乗除計算ができた。技術計算は特別
な場合を除くと、1パーセントの精度があれば十分であり、三桁の数値が読み取れる計算尺は技術計算の強力な道具であった。
 高校時代に、技術者を親戚にもっている友人から、技術計算には計算尺が必須であると聞かされていた。大学に入学して早速10インチの計算尺を
購入した。設計計算に使用したように思うが、活用した記憶はない。
 終戦後、九大に転学してから購入した、10インチ計算尺はへンミ製で『made in occupied Japan』の刻印があった。当時の計算尺は日本の
へンミ製が世界的に有名で、竹で出来ていた。この計算尺は使い勝手がよく、会社に就職後も愛用した。
会社の研究所では、実験データの整理や解析が仕事の大半を占め、終日計算尺を使用する日が多かった。そのころは生活の糧を10インチの計算尺
一つで得ているように思ったものである。この計算尺は長年の使用で端面が丸く摩滅していて、活用した証を刻んでいた。
 電卓を使用するようになってからも、記念品として大切に保管していたが、最近紛失したらしく捜しても見つからない。
 また、技術上の問題を討議する会議には5インチの計算尺を胸ポケットに入れて出席していた。1975年ごろまでのことである。この計算尺は
今も大事に保管している。

16-2 歯車式の計算機
 電卓がない時代の精度を要求される乗除計算には歯車式の計算機を使用するか、バローの7桁対数表を使用した。
 バローの7桁対数表は厚さ約1センチメートルの本になっていて、辞書を引くようにして使用する。かなり手間がかかるが、それでも、筆算や
算盤より能率がよかった。年間に数回は使用したように思う。
 歯車式の計算機には手回し式のタイガー計算機と電動式のモンロー計算機があった。いずれもかなり高価なもので、個人で所有しているのは大学
の教授クラスの人達であった。
 終戦後間もないころ、大学の授業で、ある教授から数表入りの資料が配布されたが、「その数表は教授が手持ちのタイガー計算機で丹念に計算
されたものだ」と学生仲間で噂されていた・それほど計算機は貴重なものであった。
 1947年に、卒業研究で非線型の微分方程式の数値解を求めることになった。膨大な量の計算が予想されたので、隔日に使用してよいとの許可を
指導教授から得て、モンロー計算機を使用した。このモンロー計算機は学科に1台しかないと聞かされていた。
 数ヵ月にわたって、朝から晩までモンロー計算機を操作したが、計算が進むにつれ、数値解がきれいな数本の曲線として現れてきた。この作業に
よって、数値計算の効能を体験でき、また、モンロー計算機の威力を改めて認識した。大学生活での忘れられない思い出である。
会社ではタイガー計算機による作業は、単純な仕事として扱われ、大学を出た技術者は使わないようになっていた。私が勤務した流体研究課には
数台の計算機があり、高校卒業の作業者が使用して、精度の高い定型的な多量の計算を行っていた。
 この計算機が毎月数日間課内から消える時期があった。毎月支払われる一万人を超える全従業員の給与計算のためである。この給与計算は算盤の
上手な給与担当者のみでは処理できない。算盤が使えない人は計算機を使用する。このため会社内の計算機が動員されたのである。この現象はIBM
の大型電子計算機が設置されるまで続いた。
  

 
16-3 初期の大型電子計算機
 1961年、技術計算用のIBM電子計算機が会社に導入された。このとき計算機を担当する専門の計算課が新設され、その課で、数式をフォート
ラン(計算機用の言語)に変換する作業が行われた。計算機への入力は数式の1行について1枚のパンチカードが使用された。
 簡単な計算でも100枚を超えるカードが必要であり、また入力する数値が多いと、その数だけカードが増える。10人を超す専門のカードパン
チャーが入力作業に従事していた。
 計算作業を計算課に依頼しても、幾日も待たされることが多かった。パンチングマシーンを借りて、自分で、パンチカードを作成したことも
あった。それでも実験結果の整理を歯車式の計算機よりはるかに早く、また、間違いがなく処理でき、電子計算機による作業は急速に普及した。 1961年に導入された計算機はIBM1620型であったが、1964年にはさらに大容量のIBM7040型が設置された。
 その頃のディーゼル機関関係の計算項目として
①捩り振動
②性能計算
の二つが社史に記載されているが、このうちの「性能計算」はその後飛躍的に高度化されて、1973年から開発が始まった2段過給方式のUE機関
に用いられ、電子計算機が驚異的な威力を発揮したのである。このときの計算担当者は、会社を定年退職後、九州大学教授も務められた優れた
技術者であった。

16-4 電卓
 現在、日常生活で愛用されている手帳大の電卓は1970年代に出現したように思う。加減乗除算ができ、価格も電子技術の進歩で大幅に安く
なったので、急速に普及した。この結果、算盤と計算尺は使われなくなった。
 また、技術計算には三角関数と対数関数の計算は必須である。この2つの関数計算も可能な関数電卓は1970年代後半に開発された。三角関数と
対数関数の計算には大量の計算素子を必要とする。この素子を手帳大の電卓に組み込んだ技術の進歩に驚嘆したことを覚えている。
 早速購入して、7桁対数表のわずらわしさから解放されたが、購入価格は2万円に近く、かなりの負担だった。その電卓はいまも手元にある。
 電子技術の進歩はすさまじい。1980年代にはプログラム電卓が登場した。任意の計算式を電卓に記憶させて、その計算式に与える入力値を変え
て、繰り返し計算ができる。組み込まれた関数も種類が増え、判断機能も備え、大型計算機に近い性能をもつようになった。ただ、大型電子計算機
と比較すると、計算できるステップ数が少ないのが、欠点であった。
 しかし、1978年から勤務した大学では。エンジンの設計計算や実験結果の整理には十分使用可能であった。多くの学生にそれぞれ異なった要目を
与えて設計計算を行わせる場合に、正しい結果を予め求めるときに役立った。
 1982年、10月の『日本文理大学紀要』に、「4サイクル機関の容積効率の推定」と題する技術論文を発表したが、このときの理論計算にプログ
ラム電卓を使用した。この計算をもし計算尺を使用して行ったならば、正味数ヵ月を要したと推定され、大学勤務の仕事と並行して、論文を完成
させることは不可能であったと思う。

16-5  大型電子計算機の進歩
1980年代後半になって、大学内に大型電子計算機(富士通製FACOM M320)が整備され、この計算機が気軽に使用できるようになった。数式や
データの入力はパンチカード方式からキーボード方式になり簡素化された。1986年9月の『日本文理大学紀要』に、「伝熱を考えた4サイクル機関
の容積効率の推定」と題して論文を発表した。このときの理論計算にこの大型計算機を使用した。
 1982年発表の論文と比較すると格段に計算量が増えていたが、正味の演算時間(CPU使用時間)は一つの計算条件について約1分であって、
プログラム電卓と比較して、大幅に計算時間が短縮された。
 その後も計算機の進歩は目覚しく、平成になって、パソコンが実用化され、最近は携帯電話(スマートフォン)が普及している。
 私はパソコンの基礎となった電子計算機の発展を、永年、自分の日常業務の中で体験してきた。振り返ってみて感無量である。