「勇気を与えた増田機械管理部長短命人事」 牧浦秀治
長船建設課に入社(昭和55年)の私は、第一工作部に居た増田信行さんとはお話する機会はなく、直接お話ししたのは北海道
電力の苫東厚真PFBC現地が初めてでした。
平成7(1995)年11月にG/Tコンプレッサー羽根損傷事故を、翌年8年6月にボイラ風室噴破事故が起こり、引渡しが一年先と
なりました。8月上旬には増田社長が北海道電力本店に出向き北電社長に謝り、更に休みを利用して8月31日(日)には中神常
務と一緒に激励のため北海道苫東厚真の現地事務所にお越し頂きました。現地で指導員と懇談し、「情熱と熱意」という言葉を
色紙に書いて頂きました。
次にお会いしたのは2001年7月22日のガズラン現地です。イランでハタミ大統領他の要人と面談された後、サウジに立ち寄られ
ました。赤字を出しているガズランプロジェクトの現地を視察して、指導員全員に激励の言葉を頂きました。その後、関係者
だけ部屋に入って懇談し、いろいろアドバイスを頂きました。赤字の話ばかりになってお叱りを受けると覚悟をしていましたが
、突然私をが見て「牧浦君、逆立ちしてみろ!君のポケットからチャリンチャリンと隠している利益が出てきそうな気がする」と言われました。この一言で暗い雰囲気が一気に明るくなりました。
![]() |
2001年7月22日 増田会長 ガズラン現地訪問 |
![]() |
大森ガズラン現地所長に贈呈目録を渡す増田会長 |
その後は、関東でお会いする機会が何度もあり、都度、記念艦
「三笠」の保存会会員になれと誘われました。当時、増田さん
は記念艦「三笠」の保存会の会長をされており、第一声は
「牧浦君、横須賀の三笠に行ったか。三笠は、日本人で良かっ
た、日本人はなんて素晴らしいんだ。俺たちもやれる!という
気持ちを持たせてくれるぞ‼」でした。
増田さんが『歴史街道』(2015年6月号)三笠特集に「日本人
の矜持と誇りを思い起こすために・・・ 記念艦「三笠」への
歩み」という題で寄稿されています。増田さんは締めくくりに
次のように書いています。
「私は、日露戦争とはさまざまな技術やシステム、また大局を
見据えた外交などの戦術を練り上げて、国を挙げた大戦略を構
築して戦った戦争であったと考えます。明治の先達たちは、こ
れを見事に遂行し、勝利を得ました。これこそ日本人の誇りで
あり、世界史における金字塔である。・・現在、記念艦「三笠」を訪れる人が増えているのは、現在の日本を覆っている閉塞感
や、自国に誇りを持てなくなっている現状を打開するヒントを、三笠に求めているのではないでしょうか」。

最後にお会いしたのは、昨年5月22日の「相川賢太郎様の追悼文集」完成打ち上げ会でした。
「足がちょっと不自由になった。若いころは、杖をついた先輩をみると生きるって大変だなぁと思
っていたが、今、自分がその年になった」と笑っておられました。
相川さん、高橋伯さん(私の入社以来の上司)そして増田さん、長船が世界で輝いていた時代を語
ってくれる人が相次いで亡くなってしまいました。
増田さん本人が御存知無いうちに私に勇気を与えてくれたことがあります。私は、機械管理部長に
なって一年も経たない在任243日で解任され他事業所に転勤になりました。一年も任せられない
管理者なんて“要らない人”だったのだろうと落ち込みました。
でも私より任期が短い人がいました。増田さんでした。機械管理部長になって182日で広製へ。そ
のことを知り、私の頭の中に巣くっていた「要らない人」という言葉が消えました。
増田信行さん、2025年6月3日死去、91歳。
先輩や友人たちと、増田さんの元気な姿を思い浮かべながら語り合う。思い出を語り合う時、その人が身近になり、懐かしくな
る。「増田さんを語り合う」、これが私の増田さんへの供養の仕方です。
以上