■俳句
○ 松永 巖(朔風) 様 2023年2月1日
「朝日歌壇と私」 松永 巌様
「稲畑汀子先生」㊟が約40年間選者をお勤めになった朝日俳壇。先生がお亡くなりになった現在、私には先生の想い出だけ
になって終った。
㊟稲畑汀子(いなはたていこ)1931年1月8日―2022年2月27日
神奈川県出身の俳人、「ホトトギス」名誉主宰、日本伝統俳句協会名誉会長
私が最初に投句をしたのは2011年4月11日東日本大震災の丁度一カ月後の事で、
花 冷 え や 体 育 館 の 仮 枕
と言う俳句で、勿論入選などするはずも無かった。それから毎週二、三句程投稿を続けて居た或る社句会の時に、汀子先生 から
「朔風さん、朝日俳壇に投句を始めましたね?」とお尋ねになったので「ハイ!」とお答えしたら 「有難うございます。
今後とも宜しくお願いします」と仰しゃったので、私は吃驚した。
選者が一投句者に謝意をお述べになると言う事は、如何に 俳句と朝日俳壇を大切になさって居り、真剣にお取り組みになっておられる事が解り、心から感動した次第である。
最初に先生の御選を頂いたのはその年の12月11日、
時 雨 忌 を 知 ら ぬ 原 宿 六 本 木
と言う句で、期せずしてその日の巻頭で、飛び上る程嬉しかった。
早速先生にお礼の電話を差し上げた所、祝意と激励の お言葉を頂いた。その後も投句を続け、入選回数も次第に増えて行くように
なり、日曜の朝刊を取りに行くのが楽しみになった。
特に三席以内の入選で「評」を頂いた時は、我が句であり乍ら何度も読み返して吟味して居た。
朝日新聞は毎年入選句を一冊に纏めて4月に上梓されるのも楽しみにして居る。
昨年12月82歳で亡くなられたホトトギス同人の青野迦葉さんは212句も入選された由であるが、何回入選しても嬉しい
ものである。
昨年秋に汀子先生が体調不良にも拘らず選をお続けになって居た事は、先生から直接お電話でお聞きして居たが心配で仕方が
なかった。
そして遂に2021年11月28日の朝日俳壇に「稲畑汀子先生は静養のため休載」と報じられたので、直ぐ廣太郎先生のお宅
に電話をした。廣太郎先生は御不在で、真喜子夫人がお出になり「先生はベッドに携帯をお持ちだから、電話に出た者に
『携帯でお話がしたい』と告げて下さい。
但し朝日休載の事は御存じないので話さないで下さい。」と細々と御説明を頂き、汀子先生の携帯の番号も教えて頂いた。
私は朝日俳壇のお話が出来ないならば今日でない方が良いと思い翌週の12月7日に電話をした。多分シアトルからお戻りの
お嬢様と思われる方がお出になり「対応出来そうですからお待ち下さい」と仰しゃって汀子先生がお出になった。
ご挨拶のあと「体調如何ですか?」とお尋ねしたら「余り良くないのですよ」と、でもお声はスッキリした何時ものお声で
あった。
「今の方シアトルのお嬢さんですか?」とお尋ねしたら「そうです。頼子と申します」とお元気そうに聞こえた。
「先生はホトトギスの太陽ですから、必ずお元気になってお戻り下さい。1500号祝典の事もありますし、ボーイフレンドも
お会い致したいです」と申し上げた。自分からボーイフレンドなどと思い上がって居るのではないが、3年前社句会に講師
として上京した立村霜衣氏に、私の事を「この人私のボーイフレンド!」と微笑み乍らご紹介下さったのをなぞったものである。
先生は笑いながら「必ず元気になってお会いしに行きます!」とお約束なさったのに…
先生とは何度も電話でお話をしたが、この電話が最後となって終った。 私の朝日俳壇入選の殆どが稲垣汀子選であった事を
考えると寂しくて仕方がない。 謹んで汀子先生の御冥福をお祈りする。
○ 松永 巖(朔風) 様
松永様より令和二年六月号の「ホトトギス」に掲載された記事頂きました。筆者と同郷長岡市の英雄「山本五十六元帥」
の国葬の想い出とともに山本五十六記念館で呼んだ句が紹介され非常に興味深い内容ですのでご一読ください。(伊藤)
銀 翼 松永 巌
令和元年九月二十八、二十九日の両日、北信越俳句大会が、私の郷里の長岡市で開催された。
前日句会の吟行地の中に、山本五十六記念館があり、多くの人が足を運んだと思う。
山本五十六とは衆知のごとく、ハワイ真珠湾攻撃を実施した、戦中の連合艦隊司令長官で
この長岡市の出身である。
この記念館の中央に、大きなガラスのショウ・ケースがあり、中に日の丸の付いた飛行機の翼の残骸が置かれて居る。
大会の二日目、この残骸から次の句を詠み、唯一大久保白村先生にお取り頂いた。
銀 翼 の 骸 や 悲 壮 秋 深 む 朔風
この銀翼に就いて、記念館のパンフレットには、次の様な説明文が載って居る。引用すると
「長官搭乗機の左翼」と題し、「連合艦隊司令長官山本五十六ら十一名の搭乗機一式陸上攻撃機の左翼部分。この機には山本の
ほか、副官福崎昇、軍医長高田六郎、参謀樋端久利雄が同乗し、機長小谷立以下大崎明春、田中実、畑信雄、上野光雄、
小林春政、山田春雄の乗務員がいた。昭和十八年四月十八日午前七時三十分すぎ、ソロモン諸島バラレ島におもむく途中、
アメリカ陸軍の戦闘機の襲撃をうけ墜落し、全員が戦死した。昭和五十九年二月山本五十六の生誕100年を記念して、
山本元帥景仰会は、プーゲンピル島のジヤングルをたずね、搭乗機の残骸を前に慰霊祭を行った。その後、パプアニューギュア
政府の厚意により平成元年、左翼の里帰りが実現した」とある。
この飛行機は記述にもある通り略称「一式陸攻」と言われ、双発の大形で、尻尾の部分が太く、兵が腹這いの状態で、
後方に射撃が出来る様になっていて、胴体がずんぐりしているので俗称「葉巻」と言われて居た。
二番機もあり、参謀長宇垣纏少将以下十一名が搭乗、護衛のため零式戦闘機六機も同行した。
一番機は攻撃を受けて逃げ廻ったが、遂に被弾、黒煙を発し乍らジヤングルに墜落。
二番機も海中に堕ちた。搭乗の宇垣少将は九死に一生を得て帰還したが、八月十五日の敗戦の報を受け自ら出陣し帰らぬ人と
なった。 ・
山本長官も暫くは生存して居たと言う現地人の話もあるが、公表では機上で、軍刀の柄に手を掛けたまま即死したとされて
居る。
損壊の少なかった御遺体は現地で荼毘に付され、遣骨となって帰還した。
日本では六月五日、当時成蹊高校(旧制)の生徒であった長男義正を喪主として、山本がこよなく私淑した米内光政海軍大将を
葬儀委員長として盛大な国葬が営まれた。
御遺族の希望により、郷里長岡の山本家のお墓にも、分骨納骨されることになった。
国葬の二日後の六月七日、長岡に御遺骨が到着する事になり、市内の学校の生徒を始め、団体、一般市民が、駅前の大手町通り
の両側一杯になって出迎えた。私も長岡工業の四年生で、制服制帽、巻脚絆の正装をして列に加わって居た。情景を
思い出すと、長男義正は成蹊高校の白線入りの制帽に学生服で位牌を持ち、喪服の礼子夫人が白い遺骨の箱を胸に抱かれて居た。
長官は戦死後元帥に列せられ、御下賜の元帥刀、元帥徽章を初め、大勲位、功一級金鵄勲章など、国内外からの最高位の数々
の勲章が贈られて居た。その一個ずつを紫の帛紗に乗せた三方を、夫々海軍士官が提げ持って、続々と駅正面から降り立ち、
延々と続いた
光景は、実に荘重であって、今でも忘れる事は出来ない。
(二〇一九・一〇・二八)
【山本五十六記念館に関して】
松永様が記載されている山本五十六記念館のホームページ(http://yamamoto-isoroku.com/)から
長官の人物紹介と「搭乗機一式陸上攻撃機の左翼部分」(銀翼)の写真が掲載されていましたのでご参考までに
添付いたします。
○ 松永 巖(朔風) 様
松永様が2020年3月15日のNHK俳句(Eテレ)でまたまた入選され、今回は第三席に選ばれましたのでご紹介します。 New!
司会 戸田 菜穂 (女優) : 選者 井上 弘美(京都生まれ、「汀」主宰
ゲスト 小山 薫堂(放送作家、脚本家、「おくりびと」脚本、くまモンの生みの親
季語 「春の雪」 : 選者評 「ハチ公」と誰かを待つという歌は沢山あるがこの「春の雪」が人を待っているというワクワク感とうぶな感じという作者の気持ちを代弁している。作者が去った後もハチ公は永久に主人を待っているが春の雪が降り続いているので切ない感じが出てくる。ハチ公と雪は似合う。
今回7600首の応募があったそうですが松永様の作品は第三席に選ばれました。
▪松永様が2019年9月8日のNHK俳句(Eテレ)でまたまた入選されましたのでご紹介します。
左から司会岸本葉子(エッセイスト)、ゲスト箕輪はるか(お笑い芸人)、選者長嶋侑(作家・俳人)
季語「蚯蚓鳴く」:蚯蚓(みみず)は鳴かないけれど何か鳴いてるのを蚯蚓でも鳴いてるのではと表現して秋の静かな風景を表現する季語。
選者注 :「蚯蚓鳴く」を最後に持ってきたところがポイント。ずっと聞こえている音が何かを決めずに保留して、「とも取れる」と表現している。
▪松永様が2018年2月12日のNHK俳句(Eテレ)で入選されました。
選者 高柳克弘 兼題 春の星
事務局注:兼題とは和歌・俳句の会を開く前に、あらかじめ出しておく題
評:あんなに派手に明かりをつけなくてもいいじゃないか,星が見えなくなるじゃないかという一種の文明批評のようなものでしょうが、全体の
調子としては柔らかい。それは春の夜歩きの楽しさが根底にあるからだと思われます。
松永様は今回以外にも、今まで7回入選されています。松永様の入選句と選者の評を添付します(事務局)
■平成19年8月 選者 宮坂静生 兼題 行く春
行く春を 告げるがごとく 汽笛なる
評:大らかな句。愉しさも美しさも束の間。好い季節の春が行くぞと船も機関車もいっせいに汽笛を鳴らして、去り行く春を讃えている。
■平成22年2月 選者 三村純也 兼題 煤払(すすはらい)
煤逃を 呼び戻されし メールかな
事務局注:煤逃(すすにげ)とは冬の季語の一つで煤払のとき、煤をかぶらぬように別間に避けること
評:うまく煤逃をしたと思っていたら、メールで呼び戻された。世の中、便利になると不便なこともあるといったところか。
■平成22年11月 選者 高野ムツオ 兼題 露 ← この句は特選三席
朝露の 道を夜露に 帰りけり
評:朝露と夜露とに、早朝から夜遅くまで仕事に励んでいる人の日常がさりげなく想像できる。忙しいが、しかし、働くことの充実感も
伝わってくる。
■平成23年5月 選者 片山由美子 兼題 桜餅
降り止まぬ 雨二つ目の 桜餅
評:手持無沙汰からか、二つ目に手を出したのを降り止まない雨のせいにしているのだ。どことなく春愁の雰囲気が漂う。
■平成24年4月 選者 高野ムツオ 兼題 春待つ
地震(ない)津波 春に遭ひしも 春を待つ ← この句は特選一席
評:春を待つ思いは今年は例年とは異なる。それは忌まわしい大震災があったから。一年経ち、その悲しみを新たにしなければならない日が
近づく。それでも、やはり、春は待たれる。
■平成26年6月 選者 櫂未知子 兼題 石鹸玉(しゃぼんだま)
姉妹(あねいもうと) 器一つの 石鹸玉
評:こういう発想は思い付きませんでした。仲良く分けあう「器」、そこから春の気分が広がってゆきます。類想のない作品。
■平成27年10月 選者 星野高士 兼題 残暑 ← この句は特選二席
旅先の 残暑を連れて 帰りけり
評:作者は西の方に行ったのでしょう。また、旅先から帰って来たのであれば、その場所の名産品などをお土産に持って帰るわけですが、
知らぬ間に身に染み込んでいた残暑まで連れて帰ってきてしましました。残暑も思い出であると思えばこその一句でした。
〇松永 巖 様
私と俳句 松永巖(朔風)
昭和二十年八月学徒動員先から実家に帰り、町の青年と相談し俳句をやろうと言う事になった。幸い町には俳句会もあり「みのむし」という句誌 もあり主宰も居られた。一応の手解きを受け、仲間数人と俳句会に出た。この時から「朔風」の俳号を用ひておる。句は
盆梅と 湯の滾るまま 夜を更かす 朔風
どんどの夜 児の膳一つ 残りけり 朔風
二句共高位入賞を果たした。これが小生と俳句との出会いである。その後大学受験があり東大に入学した。東大工学部にはホトトギスの重鎮山口青邨が教授で御在籍の事は既知であり、早速東大俳句会に入会した。青邨先生の他当時の著名の俳人も時折ご出席された。学業に支障の無い限り大学、大学院の六年間出席した。終戦後、半紙一枚入手も儘ならぬ時代、記録は全く残っていない。昭和二八年長崎に入社したが俳句をする余裕は無かった。本社に転勤して三菱俳句会に入会。外部に投句を始めたのは三菱退職後でNHK、朝日俳壇等に名が出るようになった。平成二十八年十月芭蕉の生誕地三重県伊賀市に投句した句が特選に入選し第70回芭蕉祭に招待された。市長始め関係者同席、宵宮の宴席から当日の発表会迄歓待を受けた。受賞者代表のあいさつの機会も与えられ感動であった。入選句は
人生の 旅は片道 翁の忌 稲畑汀子特選一席
翁の忌とは芭蕉の命日の事で俳句の季題でもある。「この思い出を冥土への片道の旅の土産話にしたい」と挨拶を締め括った。私の俳句は「俳人松永朔風」で検索するといろいろと出て来る。 以上